特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

『秋田にラスベガスを作る』 -ノンフィクション・イーストベガスの軌跡-

【第1部堂々の完結!】第12章 組織 6.イーストベガス推進協議会

2001年春、設立2期目の株式会社トラパンツは息を吹き返していた。2期目が始まった2000年10月に15万円という惨憺たる月間売上高を計上してから赤字続きで年を越しフォーラム2001を開催した2月初めには事業継続が危ぶまれる程だったが、その月に大手医療法人のホームページ制作受注に成功したのが業績反転…

第12章「組織」 5.政治の季節(後編)

村岡兼幸の知事選挙は、真っ正面からの逆風を受けての船出となっていた。 「2期目の首長選挙は現職が強い」と言われる。その第一の理由は知名度の高さにある。4年間知事の座にあった寺田典城の名前は県民に浸透している。さらに、民間出身から県知事となり食糧費問題を始めとする積年の問題の解決に労力を費やさざるを得…

第12章「組織」 4.政治の季節(前編)

21世紀の扉が開いた2001年、秋田県は政治の季節を迎えようとしていた。 寺田典城の県政1期目は終盤を迎え、2001年4月までに次の県知事選挙が行われる。県議会の過半数を占める自民党は寺田知事にとって野党であり、寺田が実行しようとした政策はしばしば県議会で修正、断念を余儀なくされた。この時、寺田と自…

第12章「組織」 3.フォーラム2001

2000年3月以降、イーストベガス構想やトトカルチョマッチョマンズに関する報道は、秋田県内で目立って増加した。 長谷川たちが県政記者クラブに積極的にニュースリリースを投げ込んだこともあり、3月の雄和町長へのイーストベガス構想プレゼンや6月のウェブ選挙の活動は、地元各紙や全国紙の地方版、テレビのローカ…

第12章「組織」 2.あきた夢塾

ベンチャービジネスの熱気が渦巻くフォレストポラーノの夜が過ぎ、そして秋田の短い夏が終わり、吹く風に爽やかさを感じる秋が訪れた。株式会社トラパンツの創業第1期となる2000年9月期の決算は、トラパンツ独自の会計基準で1,943,917円の赤字だった。 トトカルチョマッチョマンズが千秋公園での花見の翌朝…

第12章「組織」 1.フォレストポラーノ

 長谷川敦や奈良真が株式会社トラパンツを設立した2000年2月、日本はベンチャーブームのさなかにあった。  動きを先導したのはアメリカの「ドットコム・ブーム」だった。1990年代中頃から、アメリカでは多くのネット系企業が生まれた。1994年、インターネットブラウザのネットスケープ、書籍ネット販売のア…

第11章「起業」 5.ウェブ選挙

それは遣流山視察団が東京へ出発する前日、5月25日深夜だった。トトカルチョマッチョマンズのメンバーたちに長谷川敦から一通の長文メールが届いた。 メール冒頭には次の言葉があった。 「ビビッと来たぜ!」 長谷川の頭にビビッと来たもの、それは近く予定されている衆議院選挙にトトカルチョマッチョマンズとして関…

第11章「起業」 4.遣流山視察団

雄和タウン創造プランナーズによる伊藤町長へのプレゼンから2か月余りが経過し、秋田は木々の新緑が目にまぶしい季節を迎えていた。 2000年5月26日、金曜日、最高気温が25度を超えた天気の良い日だった。夕刻、トトカルチョマッチョマンズのメンバーたちはその週の最後の仕事を切り上げると秋田駅に集合した。駅…

第11章「起業」 3.町長・伊藤憲一

長谷川敦が起業を決意した1999年初冬、テレビや雑誌ではミレニアム(千年紀)という言葉が踊っていた。実際は20世紀の最終年は2000年、21世紀最初の年は2001年であり、ミレニアム(千年紀)が切り替わるのはまだ1年先の事なのだったが、9が3つ並ぶ1999年から0が3つ並ぶ2000年への移行は大きな…

第11章「起業」 2.株式会社トラパンツ

長谷川敦の頭には、子供の頃からずっと一つの固有名詞が存在し続けていた。「虎パンツ工業高校」。その固有名詞はある感情と分かちがたく結びついていた。 長谷川が初めて野球と出会ったのは、まだ小学校低学年の頃だった。彼は寺の境内、近所の広場、稲刈りの終わった田んぼに近所の友達と集まり、夢中になって野球をした…