特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第12章「組織」 2.あきた夢塾

ベンチャービジネスの熱気が渦巻くフォレストポラーノの夜が過ぎ、そして秋田の短い夏が終わり、吹く風に爽やかさを感じる秋が訪れた。株式会社トラパンツの創業第1期となる2000年9月期の決算は、トラパンツ独自の会計基準で1,943,917円の赤字だった。

トトカルチョマッチョマンズが千秋公園での花見の翌朝に県庁玄関ドアに白布の「直訴状」を貼り付けた、あの1997年の春から約3年半が経過した。その花見の月に始まった寺田県政は任期の最終年を迎え、翌年4月に次の県知事選挙を控えていた。
寺田典城の知事としての1期目は、前知事時代に原因をさかのぼる数々問題に労力を割くことを強いられた。まず、就任早々に対応を迫られたのが食糧費問題だった。佐々木前知事が辞任する原因となった秋田県庁の公金不正支出問題は、実態の解明と解決に県庁全体で対応しなければならず神経をすり減らすような日々が続いたが、1998年5月、判明した不正支出額34億円余りの全額を金融機関から借り入れた資金により県職員が県に返還する形でひとまず決着を見た。

寺田が知事として解決しなければならなかった問題はこれにとどまらなかった。
中でも、秋田県木造住宅株式会社の問題は秋田県の全国的な信用を揺るがしかねなかった。秋田県木造住宅は、秋田県が25%を出資し1982年に設立された第3セクターであり、首都圏での秋田杉の販売促進を狙いとしていた。ところが、同社は取得した住宅用地のバブル経済崩壊による価格下落や取引企業の倒産などにより多額の債務を抱え経営が悪化。のみならず、千葉県で販売した多くの建売住宅に地盤沈下などの欠陥が見つかり、秋田県は購入者たちから補修工事を求められた。寺田は同社の破産申し立てをすることに出資および融資をした金融機関の同意を取り付け、1998年2月、裁判所による破綻宣告がなされた。欠陥住宅の補修に関しては、秋田県内の多くの工務店からボランティアで補修に参加するなどの協力を得て、1999年4月の補修工事完了にこぎ着けた。

この他にも、国や県から補助金を受けていた社団法人秋田県畜産開発公社の運営上の不正と経営悪化、能代産業廃棄物処理センターの経営破綻に伴う環境汚染防止など数々の問題が発生し、寺田はその対応に追われた。
この間、秋田県議会の最大勢力は過半数を占める自民党だった。知事選で対立候補を擁立した自民党は寺田県政にとって野党であり、知事就任後の6月定例県議会で寺田の推薦した副知事と出納長の人事案は自民党が反対したため議会の同意を得られなかった。そのためこの二役が1年間近く空席となるなど、寺田知事は自民党との関係に神経を使いながら県政を運営しなければならなかった。

負の遺産というべき数々の問題にほぼ決着をつけた寺田知事は2000年2月に今後約10年間の秋田県行政の指針となる「あきた21総合計画」をまとめ、公表した。この計画で最も特徴的なのが基本的な視点として「遊・学3000」を掲げたことだった。これは1年8,760時間のうち、働く時間や睡眠、食事の時間を除いた自由時間を3,000時間と見積もり、その時間を遊びや学習などの活動に有効活用することにより「心豊かな秋田をつくろう」という趣旨であり、寺田の考えが色濃く反映されたものだった。

2000年9月の定例県議会において、寺田は議員からの質問に答え「来年の知事選に立候補する」と表明した。
この頃、株式会社興文堂社長の竹ノ内和久は寺田典城から「翌年の知事選の準備を手伝ってくれ」と依頼された。
彼は、寺田の早稲田大学の後輩にあたる。後輩とは言っても年齢が一回り以上違い寺田の横手市長時代までは面識がなかったが、寺田が最初の知事選に立候補する準備をしていた時に、選挙に携わっていた知人から「後輩だろうから手伝ってくれないか」と誘いを受け選挙準備に加わった。そして、今回の選挙でも手伝いの依頼を受けたのだった。

竹ノ内は、大学卒業後、東京の出版社や秋田市の印刷会社での勤務を経て、地域情報誌を出版する株式会社あきたタウン情報に移り、7年間、タウン誌の編集に携わった。その後独立し株式会社興文堂を設立、1995年2月に「J・トーク」という地域情報紙を創刊していた。

竹ノ内の興文堂設立には、地域情報誌という紙媒体だけでなく、インターネットやコミュニティFMなど様々な情報媒体に対応した情報発信を行うという目的があった。竹ノ内は、寺田の2回目の県知事選に当たりネットでの情報発信を交え若者の支持を取り込もうと考えた。寺田の後援会は横手市長時代からの支持者が中心となっており、高齢者が多かった。したがって、若年層にも支持基盤を広げる必要があると考えられた。

若者の取り込みのために竹ノ内が考え出した枠組みが「あきた夢塾」だった。これは参加者がホームページなどで自由に発言し合い情報を交換するネットワークと位置づけられた組織であり、事務局は株式会社興文堂内に置かれた。設立要項には組織の目的が次のとおり記載された。
「本会は変化の激しい21世紀に向かい、地方自治のあるべき姿を全般的に考え、秋田の未来について意見を述べ合い、現実に反映させることを目的とします。」
県知事の寺田に関しては、次のような規定が置かれた。
「本会は寺田典城氏を顧問として活動し、折に触れ顧問のアドバイスをいただく事とします。」
そして、竹ノ内があきた夢塾の塾長に選んだのが松村讓裕(まつむらよしやす)だった。

松村は寺田や竹ノ内と同じ早稲田大学の卒業である。竹ノ内より一回り年下で、この時33歳、出身地は神奈川県だった。彼は早稲田大学商学部を卒業した後、パナソニックに入社し大阪の事業部に勤務した。システムキッチンの営業で全国を飛び回る日々を送っていた松村が秋田に来ることになった発端は、一本の電話だった。
パナソニックに入社して3年目の春、松村は母親からの電話を受けた。母親の話はパナソニックを辞めて実家に戻るようにというものだった。唐突な話だったが、松村はそれに従って退社の手続きをし、慌ただしく取引先などに退社の挨拶回りをすると神奈川県の実家に戻った。

彼の実家は、戦前から東京の日本橋で天ぷら屋と銭湯を営んでいた。祖父が興したその事業を父が引き継ぎ、東京都内でのサウナやビジネスホテルの経営、九州やフィリピンでの関連事業に発展させていた。大阪から戻り父親の会社に入社した松村讓裕は、早速、社内会議に出席した。彼はその会議で、父から秋田市にあるユーランドホテル八橋の経営立て直しを指示された。ユーランドホテル八橋は、経営破綻した入浴施設、八橋ラドン健康センターを買収し3年前の春にオープンした施設だった。旧・八橋ラドン健康センターの経営者を支配人にして経営を任せていたが、大幅な赤字計上を続けていた。このため、松村の父は支配人を解任して東京主導の経営に転換する決断をしたのだった。
1993年4月19日、父親の会社に入社してわずか10日後に、松村は秋田の土を踏んだ。まだ25歳だった。

人事課長の肩書きで秋田に着任した松村は、経営再建の第一歩として施設内外装の修繕から手を着けた。絨毯の張り替えなど自分たちでできるところは業者の手を借りず従業員と一緒に行い、同時に社内体制も整備した。彼は経営面だけでなくフロントでの受付や清掃などの業務も携わってコストを圧縮し、秋田着任の半年後には黒字化を果たした。
秋田に来た当初、松村は1、2か月で東京に戻るつもりだったが、平成8年5月には株式会社ユーランドホテル八橋の代表取締役社長に就き、秋田と東京を往復しながら月の7、8割はユーランドホテル経営のため秋田で過ごす生活を送っていた。

2000年秋、松村讓裕は竹ノ内和久の要請に応じ、あきた夢塾の塾長になった。ただしその際に夢塾の目的や活動内容は説明されたが、寺田の選挙対策という側面は松村に伝えられなかった。
夢塾として最初の活動、「第1回 あきた夢塾・懇話会」は、11月19日・日曜日に設定された。懇話会は、講演と寺田典城を交えたトークセッションという構成だった。竹ノ内は講演の講師およびトークセッション参加者としてトトカルチョマッチョマンズの長谷川敦を選んだ。竹ノ内は、業務で長谷川のトラパンツと一緒に仕事をしていた。それは雑誌の店舗情報とインターネットを融合させる「iあきたネット」を立ち上げるという仕事だった。
竹ノ内は、長谷川がトトカルチョマッチョマンズというグループでカジノを中心とする街づくりをしようと活動しているのを知っており、27歳の長谷川に若者の代表としてイーストベガス構想のプレゼンをさせようと考えたのだ。

竹ノ内からあきた夢塾で話してほしいと声をかけられた長谷川敦は、それを大きなチャンスと受け取った。彼にとってこの懇話会は、1997年4月の花見翌朝の「直訴」、同年7月7日の知事面会制度の利用に続き、県知事の寺田に自分の考えをぶつける3回目の機会だった。県庁玄関ドアに貼り付けた白布は知事の目に触れることなく取り除かれただろうし、知事との面会ではイーストベガス構想を問うことができずくやしさが残っていた。今度こそ、県知事の寺田にイーストベガス構想をしっかり聞いてもらい「それはいい」という反応を引き出したい。思い描く街づくりは、県知事が「うん」と言わない限り実現しない事業だということは分かっていた。彼は講演準備に真剣に取り組んだ。

長谷川は奈良真と一緒にパワーポイントでプレゼンテーション資料を作成した。知事にイーストベガス構想をぶつけるチャンスを逃すまいと何日も徹夜して資料を作ると、次には何度もプレゼンのリハーサルを繰り返した。そしてトトカルチョマッチョマンズを中心とする仲間に呼びかけ、あきた夢塾への参加動員をはかった。彼は、目的を共有する仲間に県知事が構想を支持する場面を見せたかった。

すでに秋田には冬が近づいていた。11月19日・日曜日は北西の風が強く、その風に乗って時折雪が吹き付ける荒天だった。昼過ぎ、秋田市大町の協働大町ビル5階の会議室で、竹ノ内や松村によってあきた夢塾の第1回懇話会の準備が行われていた。長谷川は決戦に臨む気持ちでこの会場にやって来た。胸に「魂」という文字が入ったTシャツ姿だった。

午後1時半、松村の司会で懇話会が始まった。会場では30~40人の参加者が席に着いていた。その多くが奈良真や伊藤修身などトトカルチョマッチョマンズのメンバーだった。ところが、懇話会が始まり長谷川敦が徹夜で準備したパワーポイント資料を使ってイーストベガス構想のプレゼンをする時になっても、会場に寺田典城は現れなかった。
「必死に準備したのに、空振りになるのか。」
長谷川の胸のうちで次第に不安が大きくなっていった。
プレゼンも半ばを過ぎた時だった。寺田が姿を現した。Tシャツにジーンズというカジュアルな服装だった。残り少ない時間、長谷川は参加者の中に座った県知事一人を相手にするような気持ちで、秋田にカジノを中心とする観光都市を作り世界中から来る人を楽しませるというイーストベガス構想を語りかけた。

予定された時間が終わり長谷川がプレゼンを締めくくると、参加者たちの前に机が二つ用意され、その席に寺田知事と長谷川敦が座った。松村讓裕の司会でトークセッションが始まった。
今こそ、長谷川が望んだイーストベガス構想に対する県知事の考えを引き出す機会のはずだった。しかし、待ちに待った舞台は最初から前提が大きく損なわれていた。寺田が遅れて会場に来たため、「なぜ秋田にカジノを作ろうと思ったか」というプレゼンの重要な部分を聞かせることができなかった。それでも、このセッションの中で秋田県知事に直接、構想に対する意見を聞くことができる。それはまたとないチャンスだった。

司会の松村は、あきた夢塾の「夢」という言葉に意義を感じていた。今、27歳の若者が人口減少が進む郷里秋田を変える方法論を語った。その具体的な夢に対して県知事としてどういう考えを持ちましたか。松村は寺田にそう問いかけた。
しかし、それに対する寺田の言葉は松村の問いに正面から答えるものではなかった。彼が語ったのは、自分が長く趣味として楽しんでいる登山の話だった。実際、寺田は根っからアウトドア派であり、週4回はウォーキングをし、毎年かなりの日数を費やして国内外の山や秘境を旅していた。ここ数年に限っても、1998年に南アルプス、1999年にカナディアンロッキー、2000年には屋久島に出かけていた。寺田はその例を引いて話した。

「私はバックパッカーとして世界中あちこち旅をしていますが、なにより自然があれば楽しいんです。」
もしかすると、それらの寺田の体験は「あきた21総合計画」の基本的な視点として「遊・学3000」を掲げた発想の原点なのかも知れない。ただし、会場の参加者からもイーストベガス構想への考えを問う質問が出たが、寺田はいろいろな話をしながらも直接その問いに答える言葉は発しなかった。

長谷川は、寺田が話すのを聞きながら思っていた。
「イーストベガス構想には触れないようにしているなぁ。この構想は寺田さんのお気に召さないのだろう。」
同時に長谷川は、問われた事とは関係のない話ばかりをしながらイーストベガス構想を否定するような寺田の話術にある意味で感心していた。長谷川には、自然があれば楽しいという寺田の言葉は「だからカジノはいらない」と言っているように聞こえた。
とうとう長谷川は我慢できなくなり、寺田に直接問い質した。
「寺田知事は、私が話したイーストベガス構想をどう思いますか。」
参加者の注目が集まる中、寺田は発言した。
「若者が夢を持って頑張るのはいいんだけど…。」
それに続く言葉はなかった。

トークセッションも終了の時刻となった。ついに寺田典城の口からイーストベガス構想に対する考えが語られることはなかった。寺田は長谷川と奈良がこの日のために準備したプレゼン資料を机の上に残したまま、会場を後にした。

長谷川敦は打ちのめされていた。県知事に構想を認めさせるまたとないチャンスは、全く実らなかった。期待が強かっただけ落胆は大きかった。奈良や伊藤修身らトトカルチョマッチョマンズのメンバーは、知事が松村や長谷川の問いに正面から答えようとしなかったばかりか、渡した資料さえ読もうとせず置いて帰ったことに憤っていた。
しかし、この会場にはもっと怒っている者がいた。それは松村讓裕だった。

松村は司会という立場をわきまえて言葉や態度には出さなかったが、寺田の言動に内心激怒していた。彼は言いたかった。
「夢塾だというから司会を引き受けたのに、夢を語らせるために長谷川を講師として呼んだのに、あなたの態度はその夢に対する態度ですか。」
松村は、質問にまともに答えない寺田の態度は秋田の未来をどう築くかという若者の真剣な問いに対して、礼を欠くものだと思った。

長谷川や奈良、伊藤修身たちトトカルチョマッチョマンズのメンバー10人ほどは、あきた夢塾が終わった後、二次会をしようと会場から近い川反すずらん通りの居酒屋に入った。予想していなかったことに、司会をした松村讓裕もそれに加わった。この時、松村は帯状疱疹を患っており、酒を飲むことができなかった。それでも彼はウーロン茶を飲みながら、トトカルチョマッチョマンズメンバーたちが議論するのに加わった。

長谷川や奈良たちは、県知事から構想への同意を得られなかっただけでなく、まともな反応さえ引き出せなかったことで失望していた。
一方松村は、二次会の席で怒りを露わにした。
「ああいうのはないよ。夢塾と言って呼んでおいて、夢の話をさせて、聞く気がないんじゃないの。あの知事の態度はない。」
酒が進むにつれて、交わされる会話は次第にこれからの活動をどう進めるかという前向きのものになっていった。
「こんなんじゃ、いけないんだ。」
「そう、ファイティングスタイルでがんがん行こう。」
松村は長谷川や奈良たちが話すのを真剣に聞いていた。

最初、長谷川敦はその松村の態度を意外に思っていた。
二人はこれまでも何度か顔を合わせていた。松村は安心経営の流通問題研究会に参加したこともあったし、ユーランドホテル八橋が安心経営のビジネス研修を受けたこともあった。そうした経験から、長谷川は松村について、元気がいいバリバリの若手経営者という印象を持っていたが、秋田県外の出身ということもありそれほど秋田に思い入れはないんじゃないかと思っていた。しかし、この場で松村と話を交わし彼が思いの外熱い気持ちを持つ男であり、秋田の未来をどうするかという点についても真剣に考えていることを知った。

一方の松村にとって、イーストベガス構想の内容をきちんと聞くのは、この日が初めてだった。
「この構想は、秋田を変えるかも知れない。」
松村は長谷川がプレゼンするイーストベガス構想を聞いてそう感じていた。彼は、ユーランドホテル八橋を経営しながら、生活する場としての秋田に不満を持っていた。その不満は多様性がないという点に集約された。例えば、仕事の面でも秋田は選択肢が少ない。秋田で就くことのできる職種は限られている。かといって工場を誘致しても雇用が生まれるのはブルーカラーが中心であり、職種の幅が広がるわけではない。「こういう仕事がしたい」と思っても、それを実現するには秋田から出なければならないということが多い。

仕事を離れても、秋田には多様性がないと感じられた。いろいろな場面で出会う人も少ない。飲みに行くところも少ないし、どこへ行っても同じような店ばかり。ドレスアップして出かける場所もない。首都圏で育ち、パナソニックでは営業で全国を飛び回った経験を持つ松村にとって、秋田は刺激のないところだった。
彼は月の7~8割を秋田で過ごしながらも、続けて10日以上をこの地で過ごすことはなかった。若い好奇心を満たす刺激がここにはなかったからだ。

イーストベガス構想のプレゼンを聞いた松村は、カジノという手法自体が良いか悪いかということより、それが秋田に多様性をもたらす可能性に関心を持った。長谷川の描くまちには、ホテルや飲食店にとどまらず、ショー、イベント、様々な種類の店、スポーツがあり、そこには多様な仕事がつくり出される。世界中から観光客を呼ぶことが実現すれば、秋田でいろいろな人種に出会うことになる。それは、今秋田にないもの、すなわち松村の刺激を求める心を満たすものだった。

夜がふけ、二次会を締める時となった。長谷川敦は言った。
「今日の県知事との対戦はイーブン(引き分け)でした!」
それは、挫折を乗り越えて前に進むための精いっぱいの強がりだった。仲間も応じた。
「そうだ。イーブンだ。次は勝つぞ。」
この夜を境に、長谷川は歳も近い松村讓裕に対して「自分たちの兄貴」という思いを抱くようになった。
(続く)