特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第12章「組織」 3.フォーラム2001

2000年3月以降、イーストベガス構想やトトカルチョマッチョマンズに関する報道は、秋田県内で目立って増加した。
長谷川たちが県政記者クラブに積極的にニュースリリースを投げ込んだこともあり、3月の雄和町長へのイーストベガス構想プレゼンや6月のウェブ選挙の活動は、地元各紙や全国紙の地方版、テレビのローカルニュースで何度も紹介された。
 
2000年9月30日付け日本経済新聞の東北経済面、「ひと」というコラムは「雄和町にラスベガスを」というタイトルで、長谷川敦を「秋田を面白くする若者グループの代表」として採り上げた。このコラムは、ゴミ拾い大会や大捜査線、大捜査線2といったトトカルチョマッチョマンズの活動を紹介した後、「イーストベガス構想」の内容を説明し、伊藤憲一雄和町長への提言の結果、町の総合発展計画策定委員会にメンバーとして参加することになったことを伝えた。

これらの報道によってトトカルチョマッチョマンズや雄和タウン創造プランナーズの活動が地域社会に知られるようになるにつれ、活動の代表者である長谷川敦が様々な会合で講師を依頼される機会が増えた。ただし、そのことは必ずしもイーストベガス構想が地域社会で支持されることは意味しなかった。

彼がそのような会合の一つに講師として呼ばれた時のことだった。それは生涯学習系のセミナーであり、会場の大部分を占めていたのはリタイア後の世代と思われる参加者だった。
講師として参加者たちの前に立った長谷川は、例によって自分たちが秋田を面白くするために行ってきた活動やイーストベガス構想の内容を話した。彼はその中で、ナマハゲ、かまくらといった民俗・伝統芸能には大勢の人を集める魅力はなく、世界中から人を集めるためには、ギャンブルやアミューズメントなど人間の欲望に訴えるものが必要という持論を語った。

長谷川の話を聞いていた聴衆は退職後の年代になっても学習意欲を持っているだけあって、公務員や学校の教師、それも校長など管理職の経験者が多いように見受けられた。長谷川の話が終わり質疑応答の時間になった時、そんな参加者の一人が立ち上がり、長谷川にこう言った。
「あなたの言っていることはまったく間違っています。」
その参加者は、民俗・伝統芸能には人を集める魅力がなく人間の欲望に訴えるものが必要という長谷川の意見に異を唱えた。すなわち、地域の歴史や文化こそ住民が守り育てていくべきものであり、長谷川が言うように欲望を肯定しギャンブルを餌に人を集めるなどということは誇りある郷土を守るという考えに相反するという意見をとうとうと述べた。

その批判は、長谷川にとって想定の範囲内だった。ありがちな「地域活性化」的やり方を否定し人間の欲望に応える本質的な魅力を備えた街づくりを若さにまかせて説く長谷川は、多くの場合、生意気と受け取られた。
「何で秋田にラスベガスのような異質なものを持って来なきゃいけないのか」
「そういう街づくりで本当にいいと思っているのか」
イーストベガス構想に対しそんな批判を聞くことはしばしばだった。

しかし、この時の展開は長谷川の想定を超えていた。参加者の意見に対してどう答えようかと彼が考えている時、別の参加者が立ち上がり、最初の発言者に対してこう言った。
「講師にお招きして、せっかく来て話をしてもらったゲストに対して、そこまで言うのは失礼ではないですか。」
最初の発言者も引き下がらなかった。
「この秋田をどうやって良い方向に持って行くか、その話をしているのですから、たとえゲストの講師の言うことでも間違っていることは間違っているとはっきり言うべきです」
二人目の参加者も言い返した。
「そうじゃないでしょう。世の中にはいろんな意見の人がいるのですから、自分の意見と違っていたとしてもわざわざ来てもらったゲストの意見として尊重すべきです。」
その二人は長谷川をそっちのけにして議論を始めた。

セミナーの主催者が割って入った。
「まだ、いろいろご意見ご質問あるかと思いますが、時間となりましたので今日はこれで終わりにしたいと思います。」
主催は次の言葉で長谷川の講演を締めた。
「若者たちの大きな夢、見守っていきましょう。」

セミナーが終わった後で、主催者は失礼な質問があったと長谷川に詫びた。長谷川はそれを半ば白けた気持ちで聞いていた。その気持ちは参加者の構想への批判や主催者の謝罪からではなく、セミナー最後の締めの言葉によって引き起こされたものだった。
イーストベガス構想は、長谷川にとって目の前にある現実を変えるために進めるべきプロジェクトだった。しかし、そのプロジェクトは「若者たちの大きな夢」という一言で片付けられた。長谷川の経験上、イーストベガス構想の発表はそんな言葉で締めくくられるのが通例だった。

伊藤憲一雄和町長は自分たちと同じ目線でイーストベガス構想を街づくりプロジェクトと位置付け、町の総合発展計画にも取り入れると言ってくれたのに、地域社会の大部分の人々は、構想を「現実とかけ離れた若者の夢」に過ぎないものとしか受け取らなかった。

2000年10月、町長の任期満了に伴う雄和町町長選挙が行われた。立候補者は3期目を目指す伊藤憲一現町長と無所属新人の佐藤惣良の二人。
この選挙で伊藤憲一は「若者の夢、女性パワー、お年寄りの社会経験を生かし、町民と行政が力を合わせた手作りの町政に取り組みたい」と訴え、選挙公約の中で「イーストベガス構想の実現に向け研究を進める」と踏み込んだ。
10月22日の開票の結果、伊藤憲一は3,736票対2,353票で対立候補を退け、3選を果たした。

選挙後に開催された12月定例雄和町議会では、一人の議員が伊藤憲一の選挙公約に関して問い質した。
「3期目に向けての政治姿勢に『イーストベガス構想実現に向けて研究を進める』としているが、どのような構想で、研究はどこまで進んでいるのか。3期目就任時に『安心して住める町』を柱の一つに挙げているが、それとは相反するのではないか」

伊藤憲一町長の答弁はまったくぶれなかった。
「(イーストベガス構想は)町の社会教育課で開設している夢広場21塾のヤング部会で提案したもので、アメリカのラスベガスをひな型にしており、綿密な調査の上での提案であり、感動し、評価している。ラスベガスは、賭博のイメージが強い都市だが、人間が持っている本質的な欲求を全て満たしており、世界から集う老若男女・高齢者も夢を持って、安心して暮らせる町づくりが進められている。今後、町がどの程度関与できるかが不明だが、21世紀の町づくりを考えるうえでも、研究してまいりたいと考えている。」
伊藤町長の答弁の中には、長谷川が言い続けている「人間が持つ本質的な欲求を満たす街づくり」というテーマが取り入れられていた。

この時、トトカルチョマッチョマンズによる一つの企画が進行していた。
長谷川敦の頭にあったのは、せっかく繋がりの出来た井崎義治との関係を活用したいということ、もう一つは、イーストベガス構想を「夢物語」としか受け取らない人が今なお多い状況を変えたいということだった。

彼は考えた。イーストベガス構想が絵空事ではなく現実の街づくりプロジェクトだということを多くの人に認めさせたい。その目的のためには、都市計画の専門家でありイーストベガス構想を評価してくれた井崎にもう一度秋田に来て語ってもらうのが一番だ。それに加えこの秋田という社会を動かす影響力を持った実力者、それもイーストベガス構想に理解を示してくれる若手経済人にカジノを核とする街づくりについて現実の課題として話してもらえば、地域の人々に自分たちの生活に結びついた問題としてイーストベガス構想を考えてもらえるはずだ。

長谷川たちトトカルチョマッチョマンズは話し合った。その話し合いの中で次第に一つの企画が形を成していった。それは、井崎義治の基調講演と秋田の若手経済人たちをパネリストとするパネルディスカッションで構成されるセミナー形式の催しだった。井崎が1999年11月に来秋した際も3日間の日程の中で一日を取り、一般の人を対象とした講演を設定したが、実際に参加したのは長谷川たちタウンプランナーズのメンバーがほとんどの、いわば内輪の勉強会だった。今度はそれを多くの地域の人たちが参加する本格的なセミナーにしようという目論見だった。

パネリスト候補として、長谷川は最初に石川直人の名前を挙げた。フォレストポラーノin秋田の運営で親しくなった石川は、秋田青年会議所の理事長を務めただけに秋田の経済界や行政に幅広い人脈を持ち、秋田が進む方向性にも影響力を持っているように思われた。その意味で長谷川にとってこれは「パネリスト・石川直人ありき」の企画だった。

他のパネリスト候補は、選挙公約にイーストベガス構想の研究を掲げ、三選されたばかりの伊藤憲一雄和町長、そして長谷川が新卒で社会人として歩み始めた頃から一方ならぬ世話になっている旅館・榮太楼社長の小国輝也とすることで意見がまとまった。

セミナーの準備で講師やパネリスト候補との依頼交渉は長谷川が担当した。最重要人物と言うべき井崎義治に対しては、前回来秋した時以降、トトカルチョマッチョマンズがことある事にメールでの連絡を欠かさず、伊藤町長にプレゼンしたイーストベガス構想やウェブ選挙に対しても井崎の意見やアドバイスをもらっていた。井崎は、再び秋田に来て街づくりについて講演して欲しいという長谷川の依頼を快諾した。イーストベガス構想に前向きのアドバイスをした石川直人と伊藤憲一町長も参加依頼を二つ返事で応諾した。長谷川は、旅館榮太楼社長の小国輝也に対しては、直接訪ねて依頼することにした。

小国輝也は、1963年7月7日に秋田市で誕生した。輝也という名前は七夕の夜空に輝く織り姫、彦星をイメージしてつけられたものだった。小国家は創業を明治時代に遡る菓子舗榮太楼と1947年(昭和22年)創業の旅館榮太楼という二つの事業を営んでいた。輝也とは16歳違いの姉、芳子は家の旅館業を継ぐため東京のホテル学校に進学したが、19歳の時に大相撲の横綱、大鵬に見そめられ結婚、大鵬夫人となったため家業を継ぐことは出来なかった。

小国輝也は秋田高校から東京経済大学に進学し、卒業後は日本交通公社(JTB)に就職した。JTBでは神戸の三宮支店に配属され、国内・海外旅行の営業や添乗員の業務に就いていた。それから3年半後、輝也は72歳の父親から秋田に戻るように言われた。榮太楼の取引銀行が「早く後継者を連れてきて欲しい」と要請したのを受けてのことだった。
輝也はいずれは家業を継ぐことになるだろうとは思っていたが、旅行エージェントという仕事が面白くなってきた頃でJTBでもっと働いていたかった。しかし、父親の言葉に従い上司の三宮支店長に「実家の経営を継がなければならない」と説明しJTBを退職して、秋田市に戻り榮太楼の仕事に就いた。そして1991年、輝也は27歳の若さで旅館榮太楼、菓子舗榮太楼の代表取締役社長に就任し二つの事業を束ねる経営者となった。

長谷川敦と小国輝也との関係は、長谷川が新卒でマス・ブレーンズ・コアに就職した当初から始まった。小国はマス・ブレーンズ・コア代表の杉山税理士から頼まれ流通問題研究会という異業種交流会の立ち上げに関わっていた。様々な業種から研究会のメンバーを集め、二人いた研究会代表の一人になった。流通問題研究会は毎月1回ほどのペースで主に旅館榮太楼を会場にして開催された。

マス・ブレーンズ・コアに入社した長谷川敦は流通問題研究会の事務局担当となり、会の運営に関して小国輝也と随時連絡を取っていた。長谷川と出会った当時、小国輝也は秋田を代表する老舗旅館と菓子舗の経営者といってもまだ30代の若さだった。小国は誰に対しても裏表のない明るい性格であり、人前に立つ機会にはショーマンシップを発揮し場を盛り上げるのがうまかった。彼はそれを見込まれ秋田を代表する夏祭り、竿燈まつりの司会を任されていた。小国は10歳年下の長谷川に対してもフランクに接した。

小国は流通問題研究会の運営で長谷川を助けただけでなく、いろいろな場面で力を貸した。長谷川から相談した時に限らず、小国の方から進んで知り合いの会社を紹介してくれたり、「もっとこうした方が良い」と仕事のやり方をアドバイスしてくれたり、何くれとなく長谷川をサポートした。
小国にとって長谷川は高校の後輩に当たるが、それにしてもまったく見返りを求めることなく助力を惜しまない小国の態度に長谷川は内心驚きを感じていた。
長谷川もことある事にそんな先輩を頼りにした。トトカルチョマッチョマンズが大捜査線を実行した時も小国は長谷川からの協賛金の依頼に快く応じ、長谷川がトラパンツを創業した時もホームページ制作の第1号の顧客となってくれた。

一方、小国からみた長谷川敦はそんなに目立つ存在ではなかった。流通問題研究会の運営などで関わりを持つ中、長谷川に対して「若いのに真面目に仕事してるな」とは思ったが、その人間性に関しては地味な印象を持っていた。小国と一緒に飲む機会には、長谷川敦はぼそぼそとこんなことを話した。
「高校を卒業する時や、大学を卒業する時に友だちがみんな秋田を出て行ってしまうんですよ。それが嫌で。だから、なんとかして自分たちで秋田を面白くしようと思っているんです。」

今回のセミナー開催に当たり、パネリストとして参加して欲しいという依頼のため長谷川敦はイーストベガス構想を説明する資料を持って小国を訪ねた。しかし小国は、長谷川の説明するイーストベガス構想に対してあまりこなかった。
「そんなこと出来るの?」
小国が言ったのは構想に対する懐疑の言葉だった。
ただし、石川直人とともにパネリストとして参加し若手経済人として意見を述べて欲しいという依頼に対しては、小国は例によって二つ返事で了承した。こうして、トトカルチョマッチョマンズが企画する催しの主要参加者が揃った。

このセミナーに関しては、長谷川にもう一つの企図があった。それは、「雄和町から外に出る」ことだった。雄和町から出るとは、つまり、雄和町の事業を中心に行ってきたイーストベガスの活動範囲をもっと拡大することだった。
雄和町の職員、伊藤洋文や浦山勇人は一貫して「金は出すが、口は出さない」というスタンスを崩さず、つまり長谷川たちのやりたいようにやらせてくれた。彼らの尽力により行政が実施する事業としては異例中の異例と言えるラスベガスへの視察旅行が可能となっただけでなく、都市計画の専門家、井崎義治を東京から招いての3日間の勉強会を実現できた。また伊藤憲一町長に至っては、行政機関の長という立場でイーストベガス構想への関与を公言した。
それはプロジェクトを前進させるうえで大きな力となったし、長谷川は伊藤洋文、浦山勇人や伊藤町長には心から感謝していたが、その一方で、構想を実現に向けさらに進めるうえで「雄和町の事業」という枠組みの限界も感じていた。

構想が現実のプロジェクトであることを地域社会の人たちに認識させ実現に向けプロセスを進めるには、石川直人や小国輝也たち秋田の社会で力を発揮し影響力のある人たちに仲間になってもらうことが必要だった。
長谷川たちが企画した催しは、平成12年度の雄和町生涯学習促進事業「地域づくりフォーラム2001in雄和」として、2001年2月11日に開催されることになった。

年が明け、世界は21世紀を迎えた。前年10月にシングルが発売されたテレビドラマ「やまとなでしこ」の主題歌、MISIAが歌うEverythingが大ヒットしていた。
2000年2月に設立され4月に実質的な事業を開始した長谷川の会社、株式会社トラパンツは、この時、厳しい経営状況にあった。会社としての2期目がスタートした2000年10月の売上高はわずか15万円、当然、社員一人分の人件費も賄えない。総掛かりでホームページ制作の営業を必死で行ったものの、売上が伸びず月を追うごとに資金繰りが逼迫した。長谷川や奈良個人の金を会社に入れて何とかしのいでいたが、2001年1月には長谷川や奈良真たちの脳裏には「倒産」の2文字がちらつくようになっていた。

その間も「フォーラム2001」の準備は着々と進んだ。中心メンバーは、長谷川、奈良、奈良の妻・美香子、安田琢、渡部巌、伊藤修身、斉藤美奈子、鈴木美咲。奈良真は使用機材の準備など会場設営を担当し、安田琢、伊藤修身はイーストベガス構想要約版の作成、渡部巌はフォーラム前夜の懇親会の準備、斉藤美奈子は井崎の航空券購入や時間割の作成、鈴木美咲、奈良美香子は当日の資料作成、参加者リストの作成などを担当した。
長谷川は講師やパネリスト候補への参加依頼に続いて、プレスリリースを担当した。彼が県政記者室へ投げ込んだリリースが功を奏し、2001年1月25日付け朝日新聞秋田版、2月10日付け河北新聞秋田版にはフォーラムの開催を告知する記事が掲載された。

フォーラム開催が近づくと、長谷川たちメンバーは頼り参加者集めに注力した。事前に申し込みを受け付けた参加予定者は、トトカルチョマッチョマンズのメンバーやその家族約20人のほか、秋田の若手経済人、報道関係者など約50人となった。その中には、トトカルチョマッチョマンズと繋がりのある映画サークル”Move”のメンバー、武田守、遠藤直隆、菅原泰之や、石川県でカジノ誘致を目指す「石川県珠洲市にラスベガスを創る会」のメンバー2名も含まれていた。

2001年2月11日、日曜日、秋田県全域は厚い雲に覆われ、極寒の中、強い北風に乗って野山を、そして街中を雪が吹き荒れていた。
最低気温マイナス5.8度を記録した秋田市の気温はその後も零度を上回ることはなく、「フォーラム2001」が開催される雄和町も気温はずっと零下のままだった。

正午過ぎ、雄和町農村生活改善センターには、前日に東京から秋田入りし旅館榮太楼に宿泊した井崎義治、パネリストを務める伊藤憲一雄和町長、石川直人、小国輝也やトトカルチョマッチョマンズたちが集まり、フォーラム2001の準備を始めていた。
午後3時半になる頃、改善センターに参加者が姿を見せ始めた。やがて、会場には約70名の参加者が集まり、開会を待っていた。その中には、長谷川敦から参加を頼まれたユーランドホテル八橋の村松讓裕、地元銀行系シンクタンクの荒牧敦郎の姿もあった。

午後4時、斉藤美奈子の司会でフォーラムが始まった。
ステージ上には「地域づくりフォーラム2001in雄和 ~イーストベガス構想の可能性を探る~」という横幕が掲げられていた。最初に主催者を代表して雄和町公民館長、伊藤洋文が挨拶した。伊藤洋文は、雄和町の12月定例議会でイーストベガス構想にどう取り組むか議論があったことに触れた後、青年の社会参画促進の一環としてこのフォーラムを開催することを説明した。

続いて、雄和町教育委員会社会教育課、京極課長補佐が、基調講演を行う井崎義治のプロフィールを紹介した。その中で、井崎は東京生まれの46歳で、アメリカでのキャリアもある都市計画の専門家であり、現在は英国国立ウェールズ大学通信制大学院助教授であると説明された。
演壇に立った井崎は、まず先ほど紹介された自分のプロフィールについて訂正した。
「今日、私は47歳になりました。」
この日、2月11日は井崎の誕生日だった。次に、井崎は「衰退する秋田をいかに元気にするか」という講演タイトルについて「よく考えるとかなり過激だったかな」と述べた。

本題に入ると、井崎は人口減少の問題から話を始めた。壇上のスクリーンには日本の今後の人口推計を示す折れ線グラフが投影された。そのグラフを示しながら井崎は話し始めた。
「日本の人口は、2000年10月1日現在、約1億2千8百万人です。ほとんどピークです。そして、これから人口が減り始めます。」
人口推計に関する井崎の説明は「秋田が衰退する」ことの根拠を示していた。
日本の人口は2025年に1億2千万人、2050年に1億人、そして2100年には6千7百万人と現在のほぼ半数となる。そして人口が減り始める時には圧倒的な高齢化と著しい少子化が起こる。2050年には3人に1人が65歳以上の高齢者となる。井崎は話を進めた。

「では、皆さんの住んでいる秋田県ではどうなのか見て行きましょう。」
秋田県の人口は1980年くらいからジリジリと減り始めた。そして2000年以降どんどん減っていく。その構造としては、子どもの人口がどんどん減っていく。そして、65歳以上の高齢者の人口が増加し、就労人口(15歳~64歳)がどんどん減る。秋田県の人口総体は、2050年には五~六十万人、2100年には二~三十万人となる。秋田県が去年(2000年)の12月に発表した推計では、2100年には22万6千人まで減少する。つまり現在の秋田市の人口より少なくなる。同時に高齢化も進行し、全国よりほぼ25年先行して高齢化していく。

このような人口減少が進行する時、いったい何が起こるか。井崎の説く将来像には聴衆の想像を超える不気味さがあった。まず住宅供給がものすごくだぶつき、不動産の価値がなくなる。そして、空き地や空き家が続き、人がどこに住んでるか探さなければ見つけられないようなゴーストタウンの状況が間もなく現実のものとなる。

井崎は自治体が作る将来計画に話を向けた。このような人口減少は全国的に起こる。この人口が減少していく時に、自治体によっては人口を増加させる、あるいは人口が減少しないという計画を作っている所がたくさんあるが、そのような「定住人口」を増やす計画は自治体の計画として不可能であり、無責任である。
出来るのは「交流人口」を増やしていくこと、つまり外から人がその地域に入ってきてお金を落とす、情報の共有を行うということであり、そのような街づくりができるかどうかが、その街の元気、活気を形作る。

井崎は、交流人口を増やすことによって発展を実現した例として3つの地域を挙げた。その3地域は、九州・大分県の由布院、そして、アメリカのテキサス州サンアントニオ、ネバダ州ラスベガスだった。これらの街は、そこでしか体験できない非日常的な体験を提供すること、エンターテイメント性を兼ね備えることで交流人口の増加、そしてそれを定住人口の増加につなげることに成功した。

さらに、これら3地域に共通する3つの要因を説明した。一つ目の要因は、奇想天外なことを考えるこだわりの街づくりの仕掛け人がいることである。そのような仕掛け人は初めは狂人扱いされるが、目指す街づくりが実現すればみんな「いいじゃないか」と言うことになる。二つ目の要因は、子育てと同じくらい年数がかかる街づくりを実現するために、長期的に地道な努力を受け継いでいく人、組織が必要ということ。そして、三つ目の要因は、そのような街づくりをしようとする民間の動きに対し、協力的で積極的に支援する行政が必要ということだった。井崎は言った。
「この3つの要因が揃うと、面白いことが出来ます。」

井崎はスクリーンに街の風景などの画像を映しながら、映画祭やコンサートを開催し多くの人を集めている温泉地・由布院や、街の中心を流れるサンアントニオ川の両側に「リバーパーク」を作ることで「アメリカのベニス」と言われるようになったサンアントニオの街づくりを紹介した。

ラスベガスについては、井崎の著書「ラスベガスの挑戦」にも記載されているように、ギャンブル目当ての客から、ファミリー客、そして高級リゾートを目指す富裕層まで、対象とする観光客の層をどんどん拡大することによって新しい機能を付け加え観光都市として発展を続けていることが説明された。また、ラスベガスがマフィアを追放し、全米でもトップクラスにある治安の良さを誇っていることや、砂漠地帯にある街の緑化や奨学金による教育振興にも力を入れていることが紹介された。
これら3地域の成功例を踏まえ、井崎は本論というべき「秋田を元気で面白い街にするためにどうしたらいいか」という点に踏み込んだ。
「まず人口がどんどん減っていく中では、日本に一つしかないものを作って人を集めること、しかも海外から人や企業をもってこれるかということが重要です。」

日本ではカジノが合法化されていないが、合法化の議論はすでに起こっている。そうした中で、カジノ・タウン構想が全国各地で主張されている。東京では石原都知事が「意欲的に進めていく」ことを明言しているし、沖縄県では県の調査団がラスベガスに派遣されている。また、宮崎県のシーガイア、石川県の珠洲市でもカジノ・タウン構想が提唱されている。今日のフォーラムにも珠洲市からは2名が参加しているが、今年(2001年)の春には、第1回カジノ創設サミットが珠洲市で開催される予定となっている。この他にも、千葉県の幕張新都心や名古屋空港の近隣でもカジノ・タウンの構想がある。
カジノ・タウンは合法化されて初めて実現可能となるが、合法化されてから準備したのでは遅い。今から準備をしておくことは、街を面白くするための一つのメニューとして重要なことである。

最後に、井崎は面白い街、元気な街を実現するための7つの注意点について話した。
第1に、交流人口、特に海外からの交流人口を増やす仕組みを作ることが非常に重要である。100年後に人口が22万人になる所で市場調査もへったくれもない。
第2に、どんなに立派なものを作ってもハードだけでは人は集まらない。「そこでしか経験できないもの」が人を集める。そのことを井崎は横浜のラーメン博物館の例を引いて話した。
第3に、バーチャル体験では人を引きつけることはできない。五感に訴えるリアルな体験を目指さなければならない。
第4に、市民や若者のセンスや発想を地域活性化の起爆剤に使うことが重要。奇想天外なことを考え、言っているグループを大事にしなければいけない。「あの人たちの言っていることはよく分かる」なんて言われているようじゃ話にならない。
第5に、そのような奇想天外なことを実行しようとする人たちの努力を長期的に続けること、最初の人たちが倒れても引き継いでやっていく仕組みづくりが重要。
第6に、行政には地域経営、都市経営が求められる時代になっている。有権者がそういう地域経営、都市経営をやっていく行政をつくり出すことが重要。親方日の丸の行政、政治家が次回の当選だけを考える地域は確実に衰退する。
第7に、そのような市民参加に協力的で支援する行政が重要。行政が方向を誘導するようなヤラセの市民参加では市民がすぐに気づいてやる気がなくなるからダメで、真に市民参加を応援する行政が必要。

井崎義治は基調講演を次の言葉で締めた。
「ご自分の地域、そして秋田県をどう作っていくかという時に、この7か条を記憶にとどめておいていただければと思います。どうもご静聴ありがとうございました。」
会場からは井崎に対して拍手が送られた。

休憩時間に壇上には客席から向かって左側に一つの机が、そして右側には二つの机を並べたものがセットされた。左の机には井崎義治が座り、右側の二つの机には、左から伊藤憲一雄和町長、石川直人、小国輝也が座った。

5時20分、「魅力ある都市形成とは~イーストベガス構想の持つ可能性~」をテーマとするパネルディスカッションが始まった。パネルディスカッションは、コーディネーターの井崎がいくつかのテーマに関して伊藤町長たち3人のパネリストに発言を求める形で進められた。
井崎が口火を切った。
「まず、パネラーの方に、どういうお仕事をしているか。秋田を面白くするためにどんなことを考え、どんなことをしているかを話していただければと思います。」

井崎に近い席に座る伊藤町長からマイクを持って話し始めた。
「雄和町を面白くするためにやっている雄和町長です。今日は皆様のいろいろなお話を聞いて、アイデアを吸収したいと考えております。よろしくどうぞお願いします。」
続いて石川がマイクを取った。
「秋田で会社を経営している石川です。もともとは機械設計のエンジニアとして製造業に18年間携わってきましたが、秋田に外部からお金をもってくる仕事をつくり出さなければならない、そうでないとキャッシュフローが生まれないということで、昨年、今の会社を設立しました。ということでトトカルチョマッチョマンズとは違う立場から秋田を面白くしようと考えています。」
最後は、パネリストの中で最年少となる小国輝也の番だった。
「毎日、明るく楽しく元気よくをモットーにやっている榮太楼の小国輝也です。菓子屋と宿屋のオヤジということでやっています。」
小国はイーストベガス構想への疑問を率直に口にした。
「イーストベガス構想に関しては、長谷川君の言うことを聞いて、いったい何を考えているんだろうと、イーストベガスというのは99.9%出来ないだろうと長谷川君には苦言を申し上げたのですが、何でもしゃべってくださいという事でしたので、今日は参加しています。」

次に井崎が提示したのは、「秋田が抱える問題点は何か、その改善をはかるために最も重要なことは何か」というテーマだった。
このテーマに対して伊藤町長は、世界的には食糧不足であるものの国内では「米余り」の状況で食料である米を生産していかなければならない立場にある「農村のあり方」を問題として挙げた。さらに、人口減少の問題に触れ、雄和町で昨年度に生まれた子どもの人数が43人だけであり、これでは地域の学校を維持できないと述べた。

石川直人は、産業、経済が疲弊している秋田を活気づける方策を考えているが、若い人を呼び戻せる受け皿を作ること、すなわち、仕事をしていて面白い秋田を作ることが必要と述べた。
小国輝也は、菓子屋、宿屋のオヤジとしても人口が減ることはお客さんが減ることだから大変で、交流人口を増やさなければならないが、秋田は観光の面でも他県に後れを取っていると、観光宿泊客数やJTBのクーポンの販売額の数字を挙げて述べた。

ここでパネリストによる議論を一休みし、雄和町タウン創造プランナーズによるイーストベガス構想の紹介が行われた。説明に立ったのは伊藤修身で、パワーポイント資料をスクリーンに映しながら、約10分間で構想のポイントを説明した。
自分たちは秋田を良くしたい面白くしたいと考えている若者の集まりであるという自己紹介に続いて、若者が県外へ出て行ってしまう「県民輸出大国」の状況を打破するために、カジノ、シアター、ショッピングモール、スポーツゾーンを備え本質的な魅力を持つトータル・エンタテインメント・シティーを作り、若者の定住や経済波及効果、公共サービスの向上を実現するという説明だった。

修身の説明を受けて、コーディネーターの井崎がパネリストたちに質問した。
「今、イーストベガス構想について簡潔で、しかもポイントをついた説明がありました。パネリストの皆さんに、イーストベガス構想への期待、また構想が実現した時の効果や影響についてうかがいたいと思います。」

伊藤町長は、雄和町を舞台にした長谷川たちの活動経緯に触れながら述べた。
「まだ構想がまとまる前、長谷川君たちがラスベガスに研修に行くという話があったのですが、私は何でいくのか、ギャンブルしに行くのかと思いましたが、彼らの意志を尊重して公費も出して研修に送り出しました。その研修報告を見てびっくりしました。私もラスベガスに相当、偏見もありましたが、見方が変わりました。それから、イーストベガス構想としてまとまったものを見て本当にびっくりしました。若い人が世界を相手に構想を描けるとはすごいなとショックを受け、大人の見方ではとてもついていけないと思いました。」
続いて伊藤憲一は、雄和町町長の立場でイーストベガス構想への支援を語った。
「私は、昨年の選挙公約で、イーストベガス構想を研究すると掲げました。この夢を実現するために支援を惜しんではいけない。秋田に魅力を持たせるためにもイーストベガスが必要と考えています。」

石川直人は、長谷川たちがお台場カジノ構想よりも早く5年前から活動していることはすごいことで応援しない訳にはいかない、秋田に地域外からの金、外貨を獲得する観点からもイーストベガス構想は絶対成功させたいと述べた。
小国輝也は、実は長谷川敦と同じように大学卒業前にアメリカに旅行しラスベガスを訪れていた。小国はその経験を紹介し、ラスベガスで泊まったホテル、シーザースパレスやそこでの食事が安くて豪華なことに驚いたことを話し、イーストベガスにはラスベガスとの違いを打ち出せると良いと述べた。

パネルディスカッションも大詰めに近づいていた。井崎は、イーストベガス構想の実現に向けての課題やその課題をクリアするために何が必要か、パネリストたちに問うた。

伊藤憲一町長が挙げたのは極めて本質的な課題だった。それは、イーストベガスに対して誰が投資を行うか、民間の資本をどうまとめ上げるかという点だった。また、伊藤町長は、どうやって町民を初めとする皆さんの理解、協力を得るか、構想に同調してもらえる皆さんの力を小さな輪から大きな輪に広げていかなければならないと指摘した。

石川直人は伊藤町長の挙げた課題について、東京ディズニーランドの建設に1,500億円かかった例を引きながら、空港に近いというメリットを活かし、イーストベガス運営は民間の力でやっていくことが必要と主張した。一方で、カジノホテル誘致のためにも行政の支援が必要であり、トトカルチョマッチョマンズから町議会議員を出すなど社会的な影響力を強めていかなければならないと述べた。
小国輝也は、「秋田県はこういう刺激的なことを考えている」と全国3大紙に前面広告を打つくらいの本気の決意表明を行い、「秋田は面白そう」と全国に浸透させることが大事と指摘した。

ここで井崎は会場の参加者からの質問を募った。
最初の質問者に続き、2番目に質問したのは荒牧だった。荒牧が「イーストベガス」という言葉の由来について質問したのに対して、長谷川敦が答えた。
「単純に、東にあるラスベガスという意味です。」
これを聞いて井崎は「哲学的な理由でなかったようです」と言って笑いを誘った。
続いて質問したのは松村讓裕だった。彼は、「皆さんが本気でやろうと思っているのか、それとも何となくできたらいいなくらいの感じなのか、そのへんが分からない」と質問した。
松村の質問に対し、まず小国が「長谷川さんから聞いた時は無理と思ったけど、本気でやってみる必要がある」と答えた。次に石川は、イーストベガス構想を「計画」にもっていく必要があり、具体的なカジノホテルの紹介などについては、石川の会社、R&D創研の役員でカジノ学会のメンバーでもある西川りゅうじんの力を借りて協力したいと述べた。最後に伊藤町長は公約にイーストベガス構想の研究を掲げたことに再び触れ、その覚悟が出来ていると述べた。

パネルディスカッションの最後にコーディネーターの井崎義治がまとめを行った。
「私、街づくりには奇想天外なことを言う若者がいることが重要と言いましたが、それだけでは限界があります。子育てと同じくらい長い時間がかかる街づくりを継続していくためには、政治的にも経済的にも行動できる仕組みづくりが必要です。例えば、イーストベガス構想推進協議会といった仕組みが必要だと思います。」
井崎は宮崎県など他地域のカジノ誘致の動きと比較して、長谷川たちの活動の優位性についても述べた。
「他の地域では、カジノを誘致したいという単純な発想がほとんどですが、トトカルチョマッチョマンズの素晴らしい点は、大捜査線という面白くスケートの大きい仕掛けをしていることです。このような世界にも例のない珍しい仕掛け作りをしているグループがあるということはすごく大事なことです。こういう人がいるかいないかで地域が決まります。行政も、こういう面白い元気な街づくりをしている人たちを大事にしていかなければいけません。」

斉藤美奈子が司会に立ち、パネリストやコーディネーターへの拍手を促した。
フォーラムの締めとして長谷川敦がお礼の挨拶をした。
「今日は3連休の真ん中、しかも大雪の日に井崎先生には手弁当で秋田まで来ていただきました。また雄和町に来て参加いただいた皆さんもありがとうございました。今日の話にもありましたが、私たち本気の決意表明をして、もっともっとやっていく、ビッグウェーブを起こしたいと考えています。本日はありがとうございました。」

安田琢や伊藤修身、美奈子、美咲たちメンバーがフォーラム会場の改善センターで撤収作業をしている頃、聴衆として参加した荒牧敦郎は自分の車を運転し秋田市への帰路をたどっていた。
時刻はすでに午後7時を過ぎていた。真冬のこの時刻になると雄和町から秋田市へ通じる空港道路は暗闇に覆われ、ヘッドライトが照らすのは地面を覆う白い雪だけだった。路面は完全に凍結し、ハンドル操作をわずかにミスしただけでも車は即座にコントロールを失いスピンしそうだった。スピードを抑え、体に伝わるタイヤが路面をグリップする感触に気をつかいながら、荒牧は終わったばかりのフォーラムのことを考えていた。

彼が強く印象を受けたのは、講師として登場した井崎義治の存在だった。その名前は今日まで聞いたことがなかったが、英国国立ウェールズ大学通信制大学院助教授という肩書き、基調講演やパネルディスカッションの際の実証的で理路整然とした話の運び、落ち着いてスマートな物腰、どれも都市計画の専門家という紹介に誇張がないことを物語っていた。

その井崎を雄和町に呼んだ長谷川たちの実行力に、荒牧は軽い衝撃を受けた。
肩書きなどから考えると、井崎は東京から来たのだろう。そんな専門家が今日のフォーラムのためにわざわざ真冬の雪深い秋田まで来ること自体、信じ難いことに感じられた。
さらに井崎が話した内容からは、彼が都市計画の専門家として人口減少と高齢化の先頭を走る秋田という地域を維持し発展させるためにラスベガスを手本とする街づくりを現実的な解決策の一つと考えていること、近い将来に日本でカジノが合法化されることを前提にカジノ誘致を巡る地域間競争を戦う方法論まで考えていることは明白だった。

荒牧は、川反の「水月」でスッポン鍋を挟んで聞いた長谷川の言葉を思い出した。長谷川敦はこう言っていた。
「イーストベガス構想のことを話しても、ホラ話としか受け取らない人が多くて。」
荒牧自身、長谷川からラスベガスを手本とする街づくりを説かれても、あまり現実性のある話とは聞いていなかった。

今日のフォーラム2001で見聞きしたことは、荒牧のイーストベガス構想への認識を変えた。彼は、ツルツルに滑る路面上で注意深く車を走らせながら思った。
イーストベガス構想はただのホラ話じゃない。あいつらは本気だ。本気で秋田にラスベガスを創ろうとしてるんだ。
(続く)