特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

【第1部堂々の完結!】第12章 組織 6.イーストベガス推進協議会

2001年春、設立2期目の株式会社トラパンツは息を吹き返していた。2期目が始まった2000年10月に15万円という惨憺たる月間売上高を計上してから赤字続きで年を越しフォーラム2001を開催した2月初めには事業継続が危ぶまれる程だったが、その月に大手医療法人のホームページ制作受注に成功したのが業績反転のきっかけとなった。3月も必死の営業活動で売上増勢を維持したことに気を大きくした長谷川や奈良、夏井麗たちは仕事が終わってから連夜のように高級焼肉店へ行き盛り上がった。

一方で、ITベンチャーの勃興によって沸き立ったアメリカや日本の景気は明かな退潮をみせていた。2000年3月、日本では文藝春秋の記事をきっかけに光通信の株価がストップ安を続け、最終的には最高値の百分の一の水準まで下落した。同社の株価下落が他のIT企業に波及したこともあってITバブルと呼ばれた日本の景気拡張期は2000年11月をもって終わりを告げ、景気は再び下降局面に入った。

2001年5月下旬、雄和町は長谷川敦が最初にラスベガスを訪れてから6回目の春のさなかにあった。雄物川の両岸では水が張られた田んぼ一面に植えられたばかりの稲の苗が映り、背景をなす出羽丘陵の山々には新緑が輝いていた。
5月22日火曜日、最高気温が25度を超える暖かい日だった。長谷川敦たち雄和町タウン創造プランナーズはそれぞれの仕事が終わった夜、通い慣れた改善センターの一室に集まった。この日のテーマは、これまでの成果の確認と今後の活動方針だった。

プランナーズが2月に開催したフォーラム2001in雄和は大きな手応えを残した。地域社会へのアピールという面では、フォーラム開催に先立って朝日新聞と河北新報が秋田版で開催予告記事を掲載したのに続き、開催後の2月14日付け秋田魁新報、河北新報秋田版はフォーラム開催風景の写真付きで記事を掲載し、井崎義治の講演内容や伊藤町長、小国、石川などパネリストの発言を詳しく紹介した。
フォーラム2001開催の後、長谷川敦にはいろんな人が声をかけ感想を伝えた。
「イーストベガス構想に対する考え方が変わったよ。」
「フォーラムに参加して、あなた方を見直しました。」
それら声は真摯であり、本心からそう思っていると感じられた。そのうちの何人かは長谷川たちと一緒に行動すると言った。
長谷川敦にフォーラムの感想を伝えた者の中に、秋田県情報企画課長の五嶋青也がいた。30代初めで長谷川と歳が近い五嶋は自治省のキャリア組であり、秋田県に出向していた。彼は長谷川の誘いを受け、フォーラム2001開催の際は雄和町の改善センターまで足を運んで井崎たちの論議に耳を傾けた。フォーラムの後、ある会合で長谷川と会った五嶋はフォーラムの内容についてほめてくれた。

これらの反響は、長谷川がフォーラム2001で狙っていたこと、すなわちイーストベガス構想をある程度知っている人により深く構想の必要性や現実性を理解してもらい味方になってもらうという所期の目的が果たされたことを物語っていた。長谷川敦は、真冬の秋田に来て多くの人の認識を変えた井崎義治に改めて感謝した。

そして、フォーラムに続く4月の県知事選挙はイーストベガス構想の今後を大きく左右する意味を持っていた。構想に理解を示す村岡兼幸が公開討論会の場で「新しい発想を県政にも取り入れていかなければならない」と述べた時、長谷川敦の構想実現はすぐ手の届く所にあるように思われた。しかし現職知事、寺田典城の勝利という選挙結果は、すぐにもスタートすると考えた構想実現のプロセスが再び遠くへ行ってしまったことを示していた。
今、問題となるのは次の展開だった。これまでやってきたように自分たちで新しい道を切り開いていかなければならない。

この日のミーティングで、長谷川たちは、タウン創造プランナーズが活動してきた「雄和町の事業」という枠組みを今後の展開でどう活かすか話し合った。しかしその過程ではっきりしたのは、この枠組みがすでに役割を終えたという事実だった。
イーストベガス構想を実現に向かって進めるというプロセスは、5年前に雄和町教育委員会社会教育課の事業「夢広場21塾・ヤング部会」という舞台を得てスタートし、3年後の1999年度からやはり雄和町教育委員会の事業である「タウン創造プランナーズ」に受け継がれた。ただし今に至って、雄和町側はイーストベガス構想の推進活動はすでに教育委員会の範疇からはずれているという認識を示した。確かに、この構想の研究が町長の選挙公約にも取り上げられ地域づくり政策として論議の対象となった以上、「社会教育」という観点でこの活動を進めるのは齟齬がある。
フォーラム開催後の2月末に長谷川たちが町長と会合を持った際、伊藤町長は町の総務企画課の所管でプランナーズの活動を続けるという方針を示した。ところが新年度となった4月以降の状況をみると、総務企画課にはプランナーズ活動に充てるべき予算はなく活動の場を設ける具体的な動きもなかった。

イーストベガス構想は、「雄和町の事業」という枠から飛び出し新たなフィールドを切り開く時が来ていた。そして、それは長谷川自身が望んだことでもあった。フォーラム2001を企画したのも構想に関する理解を広げるというだけではなく、石川直人や小国輝也など秋田という社会の中で影響力、発言力を持つ上の年代を味方に引き入れて活動範囲をもっと大きく広げるという狙いがあった。
「雄和町の事業」に換わる新しい枠組み、それはフォーラム2001で井崎義治が「イーストベガス構想推進協議会」という名称案を挙げて提案した組織にほかならない。プランナーズは、その組織の名称を「イーストベガス推進協議会」に決め、メンバーや組織のあり方、今後1年の活動の方向をめぐってブレインストーミングを行った。

この2001年5月22日の会議は雄和タウン創造プランナーズの最後の活動となった。それは同時に、1996年4月に始まった夢広場21塾・ヤング部会から5年間に及ぶ雄和町事業としての活動の終着点でもあった。
ブレインストーミングで意見が出尽くすと長谷川敦はプランナーズのミーティング終了を告げた。最初から最後まで「金は出すが口は出さない」というスタンスを貫き長谷川たちに好きなようにやらせてくれた伊藤洋文や浦山勇人、そして伊藤憲一町長たちに感謝しながら、雄和タウン創造プランナーズのメンバーは改善センターを後にした。

新たな組織づくりを進めるに当たって、長谷川たちには一つ実際問題として考えなければならないことがあった。どこに集まってミーティングするかという点である。雄和町の事業が終わった以上、5年間に渡って活動舞台だった改善センターはもう使えない。さらに、石川直人や小国輝也たち経済人を活動に巻き込むためには活動の場は秋田市内にあった方がいい。といってトラパンツのオフィスは狭くて人が集まるには適さないし、佐々木三知夫の厚意で借りている川反のビル3階にある「ふるさと塾」もトトカルチョマッチョマンズの活動にはいいが、若手経済人を交え改まって何かを話し合うには、ふさわしくないと思われた。

長谷川敦には腹案があった。
あの4月15日の夜、知事選の開票結果を目の当たりにして自分たち自身が「圧力団体」になる、つまり為政者に対して発言力を持つ組織を作ることを決意した時、カウンターの隣で一緒にテレビ画面に目を向けていたのは、同じアロハを着た松村讓裕であり、そこは松村が社長を務めるユーランドホテル八橋の食事処だった。
ユーランドホテル八橋は2階に宴会用の部屋があるほか1階の食事処の奥に和室が2つありそこでも小規模な会議が開ける。しかも会議が終われば、そのまま打ち上げの飲み会に移行することも可能だ。トトカルチョマッチョマンズのメンバーとはいつも飲んでいるが、新しく活動に巻き込もうとしている松村や石川とも飲みながら親睦を深めたい。
長谷川は松村にイーストベガス推進協議会を作る準備会議をユーランドでやらせて欲しいと頼んだ。

もとより松村に異存はなかった。彼もイーストベガス構想に関する活動はもっと組織だった動きにするべきだと考えていた。松村は、2000年11月の「あきた夢塾」で司会をした時に寺田知事に構想をぶつけた長谷川たちの話を聞き、翌年2月のフォーラム2001にも参加してトトカルチョマッチョマンズの気持ちの熱さは認めていたが、他方もどかしさも感じていた。松村は長谷川たちの活動について思った。
こんなんじゃダメだ。本人たちはいろいろ言っているし伊藤町長たち周りの人は応援すると言っているしけど、本気じゃない。これは誰かが本気を出してやらないと進まない。秋田という所は、みんな口ではいろいろ言ってもこんな感じて物事が進まないことが多い。もっとグリグリやらなきゃ。

推進協議会の設立に向けた準備会議には松村も加わることになった。それは、「ゆ~らんど会議」と名付けられた。
6月12日、火曜日、そして7月6日、金曜日の夜、ユーランドホテル八橋では、第1回と第2回の「ゆ~らんど会議」のが行われた。参加者は長谷川、奈良真、安田琢、美奈子、美咲など雄和タウン創造プランナーズのメンバー、そして松村讓裕だった。夜遅くまで及んだ会議で話し合われたことは、主に新組織の会則やメンバーをどうするかというテーマだった。

2回の会議を経て、推進協議会の会則がおおよそ固まった。
会則案は18条からなり、会の名称、目的、事業内容、会員の義務となる会費等のルール、役員、会議の開催ルール等について定めていた。
第1条(名称)で「本会の名称は、『イーストベガス推進協議会』とし、併せて『イーストベガスドットオルグ(Eastvegas.org)』の名称も使用するものとする。」、第2条(目的)で「本会は、秋田を活性化するためのまちづくり、とりわけ、全世界から人が集うエリアとシステム(イーストベガス)を創出し、おもしろい、魅力あふれる秋田を創造するという『イーストベガス構想』の実現のための研究・世論形成・提言などの活動を主たる目的とする。」と規定した。
また会員の種類は、12,000円の年会費納入の義務を有する「メンバー」、できる範囲、できる方法で参加・応援する「サポーター」、会が特に認めた団体及び個人で本会の活動に協力する「アドバイザー」の3種類とした。

役員の案は次の通りだった。
・Chief Director 長谷川 敦 -いろんなことをやる
・Meeting Director 安田 琢 -総会や定例会とかの仕事。議案とかいろいろ。
・General Director 斎藤 美奈子 -総務的な仕事をやる。
・Site Director 奈良 真 -ホームページ、メーリングリスト、メルマガの管理とか。
・Accounting Director 進藤 岳史 -会計。会費、口座の管理。決算とか。

トトカルチョマッチョマンズらしさを表しているのが、第16条(心構え)という項目で、ここには次のように書かれていた。
「いろいろとカタイことを会則は記述してあるが、ベースは『楽しくやろう!』ということなので、常に楽しみながらをモットーにするべし。このバランスをメンバーは持つこと。
不可能とは可能よりもちょっと時間がかかることを言うのである。
夢は大きく、楽しみながら。
ハートはバーニング、アクションはクールに。」

さらに、メンバー間の連絡のためメーリングリストとメールマガジンを作り、社会への広報のためにホームページを開設することを決めた。幸い使おうとした「Eastvegas.org」というドメイン名はまだ誰にも使用されず残っていた。

ゆ~らんど会議では、会員のうち会費を払う「メンバー」の人選も行われた。基本的には旧・雄和タウン創造プランナーズのメンバーとし、若手経済人からは第1回ゆ~らんど会議から参加している松村讓裕のほかに石川直人、小国輝也にもメンバーになってもらうよう声をかけることにした。

この時、松村讓裕にはもう一人どうしてもイーストベガス推進協議会に引き入れたい人物がいた。
イーストベガス構想の活動を組織化にするためには、活動を進める戦略面でも秋田という地域社会で持っている人脈の面でも、さらに組織づくりのノウハウ、法律知識の面でもその人物の力が必要だと、松村は考えた。
その人物とは秋田市に本社を置く羽後設備株式会社の専務、39歳の佐藤裕之だった。

佐藤裕之は、1961年8月に生まれ、小学校に上がるまで父の実家のある県南の増田町で育った。増田町は横手市の南に隣接する十文字町から東へ向かった所にあり、国道397号線で岩手県水沢市、342号線で岩手県一関市と結ぶ交通の要地である。そのため古くから商業が盛んであり、また雄物川の支流、成瀬川、皆瀬川の流域一帯に水田が広がり稲作、りんごなど農業が主要産業だった。当地出身の漫画作家、矢口高雄が「釣り吉三平」で描いたような美しい自然環境にありながら、農業、商業の発達により歴史的に人々の暮らし向きは豊かだった。
佐藤家は増田町にある豊かな農村地主の家であり、先祖は後の北都銀行の源流となる増田銀行の設立に関わりその支配人を務めた。裕之の父は昭和30、40年代に電器販売店を手広く経営し、その会社、羽後電気は県内に約20店舗、従業員2千人を抱える規模だった。
また、父の姉の夫、つまり佐藤裕之の伯父は秋田商工会議所会頭の辻兵吉であり、佐藤は秋田県経済界の本流とも言える所にいた。

佐藤裕之は、小学生の時から秋田市に移り、秋田高校から一橋大学法学部に進学した。彼は大学に8年間在籍した。表向き「司法試験を受ける」という理由を口にしていたが実態はバイトをしてはふらっと日本各地を旅行し、そうでない時は大学の図書館でずうっと本を読む生活を送っていた。主に読んだ本は当時、社会科学のバイブルと言われたものであり、その中の一冊、「最底辺」は、西ドイツのジャーナリストがコンタクトレンズとカツラでトルコ人移民に変装し、劣悪な環境下で過酷な労働を強いられる社会の最底辺の状況を浮かび上がらせたルポルタージュだった。

彼は大学卒業後、企業の投資家向け広報戦略やファイナンス戦略などをコンサルティングする株式会社アイ・アールジャパンに就職した。就職後は連日、コンサルタントとして上場企業の財務担当部長らと面談し、資金調達先の割当や投資家に対するアプローチ戦略を検討した。仕事で顔を合わせる相手には60代の上場企業役員クラスも多かったが、そんな年上の顧客もまだ20代の佐藤を「先生」と呼ぶのだった。
そのことに面はゆさを感じながらも、佐藤はアイ・アールジャパンでの仕事に面白さを見いだしていた。彼が特に面白いと感じたのは世界中の企業の年次事業報告書(アニュアルレポート)を読みあさった経験だった。それはもちろん自らが立案するアイアール戦略の参考とするためだったが、世界中の企業が様々なやり方で事業を行いどういう成果を残したかを知ること自体も佐藤の知的好奇心を満たした。
もう一つの面白い経験として、「コーポレート・ガバナンス(企業統治)」という概念が日本で知られる端緒を開いた出来事がある。彼は、経済系の出版社、ダイヤモンド社の編集者と知り合いであり、「ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス」誌の1992年5月号で「企業の条件 コーポレート・ガヴァナンス原則の有効性」という論文を我が国で初めて翻訳したのだった。

自分の仕事に充実感を覚えていた佐藤は、当初、秋田へ戻る気持ちはまったくなかった。そんな彼が、30代になり久し振りで秋田市に帰省した時のことだった。当時、佐藤の父は羽後電気の流れをくむ羽後設備株式会社を経営し空調、給排水等の設備工事業を営んでいたが、後継者の人選に悩んでいた。実家に戻った佐藤裕之に父は言った。
「お前、羽後設備の経営をやってみないか」
その頃、佐藤は若造である自分が一部上場企業の役員たちから「先生」と呼ばれる居心地の悪さに依然として慣れることができず、さらにコンサルタントという職業に本質的な疑問を持っていた。
自分自身はまだ一度も会社を経営した経験がないにも関わらず、その業界で大きな実績、知識を持つ経営幹部たちに「先生」と呼ばれ、一緒に財務戦略を検討し決定する。クライアントが認めているとしても、結局、それは虚業ではないか。

彼は考えた。
実際に1回か2回、会社経営に携わってみないと本当のことは分からない。現場で経営というものを研究してみたい。
1996年5月、34歳の佐藤裕之はアイ・アールジャパンを退職し、秋田に戻った。その時は父の会社の経営に参加し軌道に乗せたらまた東京に戻る気でいた。

しかし、故郷の秋田で彼を待っていたのは想定外の現実だった。秋田では新参者と言っても自分には東京で大会社の役員、部長クラスと対等に渡り合ってきた経験あるし、父が長年の事業で築き上げた地盤もある。秋田でもすぐにバリバリ仕事できるだろうと考えていたが、それはとんでもない考え違いだった。
羽後設備の仕事で対面する相手からは、「おめ、何者や?」(お前は何者だ?)という感じの対応を受けた。佐藤は、いくら父の事業実績があってもやっぱりこの土地で新人は新人なんだと思い知らされた。

このままではつぶされるとまで思うようになった彼は、ここ秋田で自分自身の人脈を作り上げようと行動し始めた。それは、一つにはJC(青年会議所)での活動であり、一つにはNPOによる地域づくり活動への参加だった。彼はいくつかのNPOに関わったが、その一つ「あきたNPOコアセンター」では理事長の小西知子らとともに様々な個人、団体と協業しながら地域のニーズに応える事業を展開した。36歳からの数年間、彼は父の会社の経営に携わる傍ら、過剰と言えるほど様々な接点を作り地域社会に関わった。彼は気づいていた。
これからの商売では一人勝ちはできない。みんなでタッグを組んでまちおこしをしなきゃ企業も生き残れない。
佐藤にとってJCやNPOでの活動はその意識の表現だった。

佐藤はそんなJCの活動の中でトトカルチョマッチョマンズの存在を知った。
彼は、最初に長谷川たちが秋田でラスベガスのようなカジノを中心にした街を創ろうとしているのを知った時、鳥肌が立つような思いがした。長谷川たちは既成の勢力に頼らず若いメンバーだけで構想実現に向かって突き進んでいた。佐藤は思った。
面白い。こういう視点でまちおこしをやれるってすごい。
佐藤には、地方自治体の審議会に委員として参加した経験からある種の無力感を感じていた。そのような審議会はともすれば「確かに住民の意見を聞きました」という実績づくりの場になりがちで佐藤がいろいろ考えたうえで出した意見も言っただけで終わることも度々だった。そんな経験から佐藤は思った。
行政なんかじゃダメだ。そこから新しい考え、ユニークな取り組みは生まれて来ない。
そんな無力感を抱く体験と比べて、まったくの民間主導、しかも本当に若者たちだけで始めた長谷川たちイーストベガスの活動は新鮮だった。

しかし、その一方でトトカルチョマッチョマンズのやり方に危うさも感じていた。長谷川たちは、自分たち自身のビジョンを持っていないと思った。彼らはホテルも資本も全部県外から持ってくればいいと考えている。それでは構想実現は難しい。それは佐藤の財務コンサルタントとしての見方でもあった。

2001年の初夏を迎えようとする頃、佐藤裕之に一本の電話がかかってきた。松村讓裕がユーランドホテル八橋の事務室の外に出て掛けた電話だった。電話を取った佐藤に、JCの活動で知り合いの松村は言った。
「裕之さん、長谷川敦君って知ってますか。秋田にカジノを作ろうって面白いことをやっている人です。私も関わっているんですが、今度その活動を推進協議会という組織にしようしています。裕之さんも一緒にやりませんか。ぜひ一度、長谷川君に会ってください。」

イーストベガス構想に興味を持っていた佐藤は松村の要請を受け入れた。佐藤裕之が長谷川たちに会う場はユーランドホテル八橋の一室に設定された。

その夜、長谷川敦は安田卓や奈良真たちとユーランドホテル1階の食事処の奥にある小さな和室にいた。例によってみんな一風呂浴びた後のアロハ姿だった。その部屋に、佐藤裕之がやって来た。長谷川は佐藤に会うのは初めてではなかったがそのプロフィールはほとんど知らず、ただ「優秀な人」というイメージを持っているだけだった。

その場では、イーストベガス推進協議会の立ち上げにかかる具体的な話は出ず、ほぼ世間話に終始した。ただし、長谷川はとりとめもない話を交わしている相手、色黒でメガネをかけた精悍な風貌の佐藤裕之に不思議な印象を抱いていた。長谷川のイメージどおりまだ30代の佐藤が理路整然と話す言葉に頭の良さを感じさたが、それだけではなく、佐藤裕之はずっと前から長谷川が考えていることを全て知っているような気がしていた。長谷川敦は人と話していてそんなふうに感覚を持ったことは初めてで、知らずしらず佐藤の言う言葉を受け入れる気持ちになっていった。

イーストベガスの活動に関しては、佐藤は二つのことを話した。一つ目は長谷川たちが計画しているように推進協議会という組織にするべきだということ、二つ目はカジノ誘致に取り組んでいる各地の組織を集め秋田で全国大会を開くべきだということだった。

全国大会開催を勧める佐藤の言葉を聞いて長谷川はとまどった。
そんなことを急に言われても、一体どうやって他の地域と連絡をつけ同意を取り付けるのだろう。だいたい自分たちもまだ組織化を進めている段階なのに。フォーラム2001には石川県珠洲市の商工会議所から2名が来てくれたけど、それ以外の地域の組織とは連絡を取るつてもない。

佐藤裕之はもっと先を見ていた。
石原慎太郎のお台場カジノ構想を始め全国各地で合法化を見越したカジノ誘致の動きが起こっており、やがてカジノを巡る地域間競争が始まる。今のままではその競争で秋田が勝つのは難しい。カジノが合法化された時、どの地域にそれを認めるかは政府がコントロールすることになる。その時、秋田の優先順位はずっと低いものになるだろう。それを覆すには、長谷川たちが言うカジノを核とするアミューズメントタウン創造という理念を前に出してアピールすることが重要で、そのためには全国大会を秋田で開くという実績を見せ自分たちの考えを主張することが有力な手段となる。

この時すでに、長谷川たちのイーストベガス構想、石原東京都知事のお台場カジノ構想、石川県の「珠洲にラスベガスを創る研究会」の活動だけでなく、日本各地でカジノによるまちづくり構想が提唱されていた。
沖縄県では、2000年春、地元経済界が会員となっている民間シンクタンクが「沖縄県にカジノを導入すべきだ」というリポートをまとめ、同年4月の県議会でカジノ構想について質問された与那嶺知事が「広く各界各層の意見を聞きながら検討していきたい」と答弁した。宮崎県では、2001年2月にシーガイアを運営する第三セクター「フェニックスリゾート」が経営破綻したことを受け、同年3月、宮崎県議会はシーガイア再生をはかる意図から国にカジノ合法化を求める請願を採択した。
この他にも、大分県別府市、静岡県熱海市、愛知県常滑市などでは商工会議所を中心にカジノによるまちづくりを目指す動きが起こるなど、カジノ構想は研究段階も含めると全国の10を超える地域で提唱されていた。

佐藤は、イーストベガス推進協議会は今まで通り若者中心に進めるべきだと考えていた。彼は長谷川に言った。
「役職的なことは問題にしなくていいから、長谷川君が中心になって進めればいい。」
その言葉に対して、長谷川は言った。
「自分たちには社会的な力がまだないです。だから、裕之さんの名前を使わせてください。」
佐藤は自分がイーストベガス推進協議会のメンバーとなることを了承した。
これ以後、佐藤はゆ~らんど会議にも参加するようになった。
8月8日の第3回には本荘市から村岡兼幸が参加した。そして、石川直人も参加した9月7日の第4回ゆ~らんど会議で、新組織の形が固まり、メンバーは設立総会を翌10月4日に行うことを決定した。

2001年8月、日本各地でカジノ構想が盛り上がりを見せる中でイーストベガス構想も全国的な知名度を得て、全国ネットのテレビ番組で長谷川たちの活動を取り上げようとする取材依頼が続いた。
8月10日、長谷川敦に雄和町役場を通して独立系のテレビ番組制作会社・テレビマンユ二オンから連絡があった。奈良真が作ったばかりのイーストベガス活動のホームページ「Eastvegas.org」を見て連絡したとのことだった。連絡の内容は、カジノというテーマで番組制作を検討しているので、取材のためイーストベガス推進協議会立ち上げなど活動の軌跡をテレビカメラで追いたいという依頼だった。長谷川は早速、雄和タウン創造プランナーズが伊藤町長にプレゼンした資料、「イーストベガス構想」をテレビマンユニオンに郵送した。

8月20日には、大阪からの電話が長谷川にかかってきた。電話の相手は讀賣テレビで、毎週土曜日の朝に放送している「ウェイクアップ」という番組でイーストベガス構想の活動を取り上げたいと話した。ミーティングしている画が欲しいという要請があったため、長谷川は翌週27日にトトカルチョマッチョマンズ・ミーティングを設定して仲間たちに集まるように呼びかけた。
この讀賣テレビの企画は実を結んだ。第4回ゆ~らんど会議の翌朝、9月8日午前8時から秋田県を含む日本テレビ系全国ネットで放送された「ウェイクアップ」には、東京都、宮崎県と並んで秋田のイーストベガス構想が登場、「全国で一番進んだ構想」として紹介された。

トトカルチョマッチョマンズはイーストベガス推進協議会の設立に向けた活動と並行して、もう一つ大きな企画を勧めていた。それは「大捜査線3-エニグマ-」だった。1998年と1999年、2年続けて大捜査線を成功させたトトカルチョマッチョマンズだったが、2000年は大捜査線を実行することができず、参加者からの開催を求める声にも後押しされて2001年秋に大捜査線を実行することを決定、その準備を進めた。
企画の中心となるメインシナリオ作りは、これまで同様、伊藤敬と進藤岳史が担当した。11月に定められた実行日に向けてほとんど寝る間もない作業を続けていた二人は、ある朝、自分たちが作っているストーリー以上に現実離れした光景を見た。テレビ画面の中で高いビルに旅客機が突っ込んだ。それはまるで映画のワンシーンのような現実感のない光景だったが、見ているうちに同じ画面上に2機目の旅客機が隣のビルに突っ込む場面が映し出された。9.11アメリカ同時多発テロの第一報だった。

一方、長谷川や奈良真の会社、トラパンツは創業第2期の決算月を迎えていた。2月、3月と高い売上実績を上げた長谷川たちは連夜のように焼き肉を食べ盛り上がったが、あいにくその勢いは続かなかった。その後4か月連続で赤字を計上した長谷川たちは、自分たちが一時の好調におごり高ぶっていたと反省し、以後の飲み会で焼き肉は全面禁止に決めた。
トラパンツ2001年9月期決算は同社の独自会計基準で-1,933,533円を計上し、2期連続でほぼ同額の赤字となった。

10月4日木曜日の未明、イーストベガス推進協議会のメールマガジン「イーストベガスマガジン創刊(準備)号」がメンバーに配信された。
このメールマガジンは、イーストベガス推進協議会が同日に設立総会を開催することを告げたほか、活動報告・活動案内、日本各地でのカジノ最新情報、イーストベガスに関わりを持った人からのメッセージを掲載した。今後の予定では活動の目玉として井崎義治をナビゲーターとして来年春にでもラスベガス視察を行い、現地の人との対話でイーストベガス実現へのヒントを得る計画を掲げた。

メッセージは井崎義治、伊藤憲一町長、長谷川敦が寄せた。「魅力ある街を創りだす人々」と題された井崎のメッセージは、「魅力のある街に人々は集まる。しかし、忘れてはならないのは、街の魅力を創り出す人々の存在だ。」と述べ、そのような街を創るためには発想の飛躍が必要であり、魅力ある街が「夢想家、変人と呼ばれた人々の、凄まじい努力によって創られてきたことを忘れてはならない。」と結んだ。

また「不可能を可能に」と題された伊藤憲一のメッセージは、「夢広場21ヤング部会」が海外研修に行こうとした時、一度は「なんでラスベガスなんだ」と思ったが、研修成果の「構想」のプレゼンに満足、感動したことを述べ、「21世紀を背負っていく若者のパワーに期待し、この挑戦に自分の夢もかけていきたいと思っている。」と語った。

長谷川のメッセージは、「トトカルチョマッチョマンズから始まって5年半、イーストベガス構想をみんなして大声で叫びつづけてきましたが、このたび、ようやっと次のステップに進むことができました。」と始まり、次の言葉で締めくくった。
「不可能とは可能よりもちょっぴり時間のかかることを言うんです。
きっと秋田は変わるはず。
不可能が可能になる時間をみんなして特等席で見よう!
サポーター登録お願いしますね。
それじゃバンバロー!!
ウヒョー!!」

次の朝は10度以下に冷え込み、秋の深まりを感じさせる日となった。夕刻6時、旅館榮太楼の矢留の間では、金屏風を背にしたテーブルに左からスーツ姿の佐藤裕之、Tシャツ姿の奈良真、長谷川敦、そしてスーツ姿の鈴木美咲、石川直人が並び、記者会見に臨んでいた。美咲は恥ずかしさを感じているのかややうつむき加減だった。それまで長谷川たちは、ことあるごとに県政記者クラブへのニュースリリースを行ってきたが記者会見を行うはこれが初めてで、松村や佐藤裕之のアドバイスを入れてのことだった。会場には長谷川たちの予想を超える新聞、テレビなどのメディアが集まった。

イーストベガス推進協議会代表として中央に座った長谷川は、胸に「魂」の文字がプリントされた黄色いTシャツを着ていた。そのTシャツは東京に行った時に渋谷の店で偶然見つけて買ったもので、色がトラパンツのイメージカラーと同じということ、「魂」という字で「全身全霊を込めてやっています」という気持ちを表そうということから、出陣の場となるこの記者会見のために選んだのだった。

イーストベガス推進協議会の設立、大捜査線3の準備、トラパンツの決算、すべてのことが重なり睡眠時間がとれない日々だったが、その中にあって長谷川敦の気持ちは高ぶっていた。
雄和中学校、秋田高校の仲間たちと一緒に始めて5年半進めてきたイーストベガス構想が、井崎義治、そして小国輝也、松村讓裕、石川直人、佐藤裕之たち上の年代の力と智恵を得て、良い具合に回り始めた。やばい!これはマジで実現しちゃうな。

テレビ用の照明やカメラのストロボの光を受けながら、Tシャツ姿の長谷川敦は集まった報道陣に話した。
「構想を5年間温めてやっと第2ステップに進めました。こうして計画実現のための強力な集団ができたので、これからは二段飛びぐらいの勢いで進んでいきたいと思います。」

2001年10月初めの事だった。

(秋田にラスベガスを作る 第1部 終わり)