特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第12章「組織」 4.政治の季節(前編)

21世紀の扉が開いた2001年、秋田県は政治の季節を迎えようとしていた。
寺田典城の県政1期目は終盤を迎え、2001年4月までに次の県知事選挙が行われる。県議会の過半数を占める自民党は寺田知事にとって野党であり、寺田が実行しようとした政策はしばしば県議会で修正、断念を余儀なくされた。この時、寺田と自民党の間で最大の争点となっていたのは「国際系大学の設置」だった。

秋田県で国際系大学の設置が検討されるに至った経緯は1986年(昭和61年)に遡る。その年の中曽根首相とレーガン大統領の日米首脳会議をきっかけに日本でアメリカの大学の日本校を設立するブームが起きた。秋田空港が立地する雄和町も、国際社会に対応した人材育成を旗印にアメリカの大学日本校の誘致に乗りだし、1990年5月にミネソタ州立大学秋田校が秋田空港に隣接する場所に開校した。

アメリカの大学の日本校は、日本にいながらアメリカの大学に通えるというメリットがあったが、同時にデメリットも抱えていた。それは、日本においては大学と認定されず専修学校という位置付けにとどまることだった。ミネソタ州立大秋田校は初年度こそ定員の250人を超える学生が入学したが、国内では大学と認定されないというデメリットやアメリカの本校留学を前提とした英語学習の厳しさが認識されるにつれ入学者の減少や退学者の増加に悩まされるようになった。学生数の減少は授業料収入の減少に直結し、ミネソタ州立大学秋田校を運営する学校法人秋田国際アカデミーの赤字は累積していった。

1999年4月、秋田国際アカデミーの経営悪化を白日の下にさらす事態が発生した。資金不足のためアメリカのミネソタ州立大学機構への教員人件費の送金ができなくなり、雄和町は2億円の資金を拠出せざるを得なくなった。雄和町長の伊藤憲一は寺田知事にミネソタ州立大学秋田校への支援を要請した。
寺田知事は1997年4月の就任当初からミネソタ州立大学秋田校に関心を持ち、その経営悪化への対応策を探っていた。1999年9月、アメリカのミネソタ州立大学機構と秋田県が重ねた協議を踏まえ、寺田は「国際系大学の基本構想」を発表した。これは、ミネソタ州立大学秋田校の閉校を前提として、同校とは別に新大学を設立しミネソタ州立大学機構の協力も得ながら国際社会に通用する人材の育成を目指す構想だった。この構想には、我が国初となる日米両大学の卒業資格取得の可能性を探るという野心的な狙いが含まれていた。9月補正予算には、国際系大学(学部)可能性調査事業として268万円が計上された。

2000年2月、県議会の定例会において、国際系大学基本構想策定事業費1300万円を含む平成12年度(2000年度)当初予算案が審議された。自民党と寺田知事、県当局との間で議論が行われ、結局、事業名を「構想策定事業」から「調査検討事業」へ変更することでこの予算が可決された。
寺田に招かれて文部省官僚から秋田県副知事となった板東久美子は国際系大学の構想をまとめるため中心になって奔走した。2000年4月、国際系大学(学部)検討委員会の18人の委員が発表された。委員には、東京外語大学学長の中嶋嶺雄、ミネソタ州立大学秋田校学長のドン・ニルソン、秋田県立大学学長の鈴木昭憲や、元国連事務次長の明石康、そして経済界からは秋田県電子工業振興協議会会長の須田精一、秋田商工会議所回答の辻兵吉などが含まれていた。

2000年5月に第1回会合を開催した国際系大学(学部)検討委員会は、11月6日に最終の第6回会合で報告案をまとめ、11月9日に座長の中嶋嶺雄が寺田知事に答申した。その中で大学の理念は「グローバル時代の未来を切り開くため、英語をはじめとする外国語の卓越したコミュニケーション能力とグローバルな視野の伴った専門知識を身につけた実践力のある人材を育成し、国際社会に貢献する」とされた。また、新大学はミネソタ州立大学秋田校のキャンパスを活用し、平成15年(2003年)4月に開学することが提案された。

しかし、寺田の国際系大学構想はすんなりとは進まなかった。最大の障壁は県議会の自民党だった。
寺田は2000年12月の定例県議会で国際系大学の基本構想案を提示、年が明けた2001年2月の定例県議会で、国際系大学設置費6311万円を含む平成13年度(2001年度)当初予算案を提案した。これに対し、代表質問に立った自民党の藤原俊久議員は次のように問い質した。
「知事が、国際系大学問題について、論理的で明確な答弁をしていないにもかかわらず、その予算を知事の改選期を控えた骨格予算の中に計上することは、民主主義の論理に反する姿勢であり、その発言にも、謙虚さや寛容こそ学問の始めという建学の祖としての姿勢が見えない。過去の教訓を踏まえた後世に悔いを残さない結論を出すためにも、ミネソタとの協議内容を明らかにし、15年4月の開学でなければ連携が困難になる具体的な論拠を伺いたい」
3月8日の県議会本会議で自民党などの賛成多数で可決された平成13年度当初予算修正案は、国際系大学設置費6311万円が全額削除されたものだった。この削除により国際系大学の平成15年開学は不可能となった。

雪深い秋田にもようやく春の気配が感じられるようになっていた。県知事選挙はすぐ目前だった。
寺田典城は、すでに前年(2000年)9月県議会で次回県知事選挙への出馬を表明していた。一方、自民党も県議会を舞台に寺田知事との対決姿勢を鮮明にしながらその2選を阻むべく知事候補者の擁立を進めていた。その候補者は、秋田市から約40㎞南の本荘市にいた。

秋田、山形の県境にそびえる鳥海山の雪どけ水を集め日本海に注ぐ子吉川は、流域面積で県内第3の規模を持つ。子吉川の流域を中心にして、西目町、仁賀保町など7つの町からなる由利郡、そして地域の中心都市、本荘市が位置していた。本荘由利地域は北国秋田の中では気候が温暖であり、仁賀保町の勢至公園は県内で最も早く花見ができる場所として知られていた。
本荘市で生まれ育った村岡兼幸はこの時、43歳だった。

彼は、1957年6月に本荘市で生まれた。父親の村岡兼造は村岡建設工業の社長を務めた後、政治の世界に身を転じた。兼造が秋田県議会議員を経て、衆議院議員選挙で初当選したのは、兼幸が15歳の時だった。それ以来、兼造の本拠地は東京になり、「金帰月来」の言葉通り金曜に秋田に帰って後援会との打ち合わせや地元行事への出席を行い、月曜にはまた東京に戻る生活を送るようになった。

村岡建設工業は村岡兼造が社長を辞した後、弟の村岡淑郎(よしお)が社長を継ぎ、県内有数の総合建設会社として発展を続けていた。村岡兼造の長男である兼幸にとって、いずれは叔父、淑郎の後を継いで村岡建設工業の経営者となることは既定の路線だった。
村岡兼幸は本荘高校から青山学院大学経営学部に進んだ。大学卒業後、彼は「他人の飯を食う」ため北海道を地盤とする建設会社、地崎工業に就職した。彼は同社で工事現場のプレハブ事務所で経費管理を担当するなど約2年半の経験を積んだ後、1983年の秋、地元に戻って村岡建設工業に入社した。

彼は、地元に戻ると由利本荘青年会議所(JC)に入会した。叔父であり勤務先の社長でもある村岡淑郞は由利本荘JCを立ち上げた時の専務理事だった。淑郞は彼に話した。
「JCに入って地域にどんな人がいるか覚えた方がいい。」

青年会議所には由利本荘JCのような地域ごとの会議所の他に、それらをたばねる全国10地区のブロック協議会、さらに全国的な調整機関である日本青年会議所(JC)がある。1986年、前年に日本JCの会頭を務めた野津喬(のずたかし)が本荘市を訪れた。由利本荘JCの先輩たちはまだ20代の村岡兼幸を野津に紹介し頼み込んだ。
「村岡君はまだ若いですが、この地域にとどまらず他の地域でも頑張らせたいんです。そのための勉強する場所を彼に与えてください。」
頼みは聞き入れられ、翌年、村岡は副会頭、國立金助の秘書役として日本JCに出向した。彼は役割を果たすため、月に2~3回、最高裁判所や自由民主党本部に近い東京都千代田区平河町にある日本JC事務局に出向いた。もちろん社長の村岡淑郞をはじめとする会社の全面的なバックアップを受けてのことであり、それが可能だったのは彼が会社の後継者という共通認識があればこそだった。

彼は自分に与えられたせっかくの機会を活かそうと考えた。実際、日本JCでの活動は彼にまったく新しい世界を開いた。30代になったばかりの村岡兼幸は、國立副会頭について日本各地の会議に出席しただけでなく、JCの世界大会出席のためにシンガポールへも行った。全国から集まった1万人のJC会員を前に30分間のスピーチする経験もした。
彼は、由利本荘JCでの活動と並行して日本JCでの活動を約10年間続けた。日本JCの活動には国際協力や人材育成など様々な分野があるが、村岡が一貫して取り組んだテーマは「まちづくり」だった。

彼が日本JCの活動のため海外を訪れた経験の中で、特に心を惹かれた国がある。それはイギリスだった。この国が彼を引きつけた要因は二つあった。一つはデモクラシーの原点を感じられたこと、もう一つは田舎町のたたずまいだった。
市民主体の地域づくりに関して、彼はイギリスの「グランドワークトラスト」という団体に注目した。これは、環境保全という方向性のもと市民、企業、団体の三者が集まって合意形成を行いプロジェクトを作っていくボランタリーな組織である。村岡はグランドワークトラストに代表される市民と行政との協力関係のあり方を研究するため、3年ほど連続して日本JCの使節団を組み、イギリスのシェフィールドやバーミンガムの街や大学を訪れた。

初めてイギリスに行った際、彼に強い印象を残した光景があった。それはイングランド北西部に位置する湖水地方を訪れた時だった。そこはピーターラビットのふるさとであり、氷河時代の痕跡を今に残す多数の湖が存在する土地だった。豊かな自然の中で羊が放牧されている風景はそのまま絵葉書になるような落ち着きと潤いがあった。その地方の自然に取り巻かれた田舎町にあったのは日本の家屋よりもはるかに小さいミニチュアセットのような住宅だったが、彼がそこで発見したのはそれら住宅の前にある手入れの行き届いた庭だった。各住宅の前庭は集まり、一体になって美しい景観を作りだしていた。村岡兼幸は思った。
それぞれの庭は、街全体の中の庭として整備されているのだろう。それは自分のためというより街に住む住民みんなが楽しむための共同の空間なんだ。
彼はその庭を見ながら、市民一人一人の主体性が集まって社会を作り上げるデモクラシーのあり方に共通するものを感じていた。

彼が日本JCの専務理事になった1995年の1月17日、関西地方を阪神淡路大震災が襲った。
その年に日本JC会頭になったばかりの山本潤の自宅は兵庫県西宮市にあった。その日本家屋は大震災で倒壊し、山本は長男を亡くすという悲劇に見舞われた。村岡兼幸はその報を山本から直接知らされ、取るものも取りあえず本荘市から東京の青年会議所会館に駆けつけた。詳しい被害状況はまだ明かになっていなかったが、極めて大規模な災害であることが推測された。彼はすぐにJC内に被災地支援の対策本部を開設した。
全国からJCメンバーが支援に集まり、最終的には3か月間にわたり延べ五万人のメンバーが組織的に被災地支援のボランティア活動を行った。この経験は、社会に対して個々が主体的に役割を果たすべきだという彼の考えを強めた。

1997年、40歳を迎える年に村岡兼幸は「小さなデモクラシーが未来をひらく」というスローガンを掲げ第46代日本青年会議所会頭に就任した。その年、彼は三重県知事の北川正恭と対談した。青年会議所OBの北川は、三重県議会議員、衆議院議員を経て、1995年に三重県知事になり、岩手県の増田寛也、宮城県の浅野史郎、高知県の橋本大二郎、東京都の石原慎太郎らとともに「改革派知事」として注目されていた。

村岡と会った北川正恭がまず語ったは、三重県で行っている徹底した情報公開の取り組みだった。
「今まで情報は行政の独壇場であったのだけど、その情報を共有し合おうというわけでしょう。まさに行政のシステム革命が起こってくる。それでどういうことが起きるかというと住民参画が起こります。住民参画が起こるということは、住民はパートナーとなりますね。当然、ボランティア、NPOがそこで育つ。だから、情報公開は避けて通れない大きな課題であるという認識ですね。」
村岡は、自分の経験を踏まえて応じた。
「イギリスのデモクラシーの原点みたいなものを見て、コミュニティーから社会がはじまる、コミュニティーから国がはじまるといった意識が非常に強いような気がしていたのですが、今のお話を聞いて、コミュニティーの原点には、情報の公開や共有があって、そこから住民参画がはじまるのだと気づかされました。」
さらに北川は、三重県が進めている行政改革について語った。その内容は、製造者の論理で動いていた行政を生活者が中心の行政システムに変えていくこと、県庁に事務事業評価システムを導入して事業のスクラップアンドビルドを行っていくことなどだった。村岡は、自分の目指すデモクラシーを北川正恭が行政の分野で実現しつつあるのを感じた。

その年、村岡は「大変革・夜明け前」という本を著した。その題名には、環境、食料、高齢化社会といった問題を前にして大きな変革を希求する彼の思いが込められていた。彼にとって変革とは、主体的に社会に参画しようという市民意識の改革、市民とのパートナーシップを基礎に据える行政の改革、その両面からなるものだった。

青年会議所での活動は40歳までという年齢制限が設けられている。1998年にJC会員としての現役を退いた村岡は、活動の中心を本荘市に移した。地元に戻り秋田県の政治や行政の動きを見るにつけ、彼にはもどかしさが募った。知事の寺田典城と議会の最大勢力である自民党がことあるごとに対立し、改革を進めるべき行政の動きは緩慢に感じられた。
その脳裏には三重県で行政改革を進める北川正恭の姿があった。彼は考えた。
産業界、学術機関、行政が力を合わせて高齢化の進む地域社会を良くしていかなければならないのに、秋田県はこんなことでいいのだろうか。自分自身の手で改革を推進し目指すデモクラシーをこの秋田の地で実現すべきではないか。

村岡兼幸のジレンマは、自分が目指す方向と、周りが自分に抱くであろうイメージの大きなギャップにあった。彼が実現しようとするデモクラシーは、一人一人の市民が主体的に社会と関わり、その発意に基づいて社会を変革していく手法によるものだった。それは、長く政権を握ってきた自民党政治に対して人々が持つイメージ、つまり業界団体を中心とした組織動員選挙により権力を握り利益誘導により投票に応えるというイメージと正反対だった。

父の村岡兼造は、自民党の衆議院議員として当選を重ね、郵政大臣、運輸大臣を歴任、兼幸が日本JC会頭となった1997年の9月には橋本内閣の官房長官に就任した。国政を担う政治家の長男であり、有力な建設会社を背景とする村岡兼幸は、周りの人々の目には自民党政治の申し子のように映るに違いない。それでも、彼は考えた。
長い物に巻かれるだけではない。政治の場に飛び込んで中から現実を変えていこう。ここで諦めたら次はない。
彼の背中を押したのは、青年会議所の活動で繋がりを持った30、40代の仲間たちだった。

父、兼造は、大物政治家でありながらそれを感じさせない腰の低さで人々に対応し、兼幸には父としての優しさをもって接した。それは身内ながらさすがと感じる人柄だった。
国政の中心で活躍する村岡兼造が自宅に戻って来た時、兼幸は話した。
「地方で何かやりたいと思っている。」
それは知事選への立候補の意味していた。長男の意思表明に老練な政治家は秋田なまりの言葉で応じた。
「知事選は大きな選挙だ。そう簡単じゃないぞ。」
息子の覚悟を確かめる言葉だった。父の目には厳しい戦いになることが見えていた。

知事候補選びに苦労していた自民党秋田県連は、村岡兼幸を候補者として擁立することを正式決定した。2000年10月27日、3か月半前にフォレストポラーノが開催された秋田ビューホテルで、村岡は記者会見に臨んだ。
「大変革を夜明け前にするため秋田県は様々な力を合わせて、改革に取り組まなければなりません。今の秋田県はそういう状況になっているでしょうか。真の意味の民主主義を目指して議会も行政も、そして住民も力を合わせて新しい秋田を作っていく、そのエネルギーの秋田県にしたい。」
寺田典城が知事選出馬を表明してから約1か月後だった。

村岡の選挙活動を支えたのはJC人脈に連なる秋田県内の若手経済人たちだった。その中心には石川直人がいた。
学校は違うものの村岡と石川は同じ学年だった。雄物川町で農業の傍ら町議会議員も務めた石川の父は、横手平鹿地域の村岡兼造後援会の会長だったという繋がりもあった。それにも増して、本人同士の石川直人と村岡兼幸はJCの活動を通じて親しかった。
石川は由利工業グループに就職して間もなく、グループを率いる須田精一から言われて地元のJCに入会し、さらに日本JCの電気情報部会の一員となった。村岡兼幸が日本JCの専務理事となった1995年、石川は日本JC電気情報部会の部会長であり、阪神淡路大震災の際にはトランジスタラジオ1万台を全国から集め、被災者に送るという活動を行った。
石川たち若手経済人は「秋田・未来をひらく県民の会」という組織を作り村岡の選挙活動を支えた。

2000年の暮れ、仲間たちと「フォーラム2001 in 雄和」の準備を進めていた長谷川敦に石川直人から連絡が入った。
「今度、大物と会わせる。トトカルチョマッチョマンズのみんなにも会わせたいから、その機会を設定してくれないかな。」
大物とはもちろん村岡兼幸のことだった。長谷川たちと村岡が会う場は年も押し迫った12月23日のトトカルチョ・ミーティングに設定された。
天皇誕生日、冬にしては暖かい気温だったが、時おりみぞれ交じりの雨が西風に乗って吹き付けた。トトカルチョマッチョマンズが活動拠点にしている秋田市川反にあるビル3階のふるさと塾に、石川は村岡兼幸を連れて来た。その日のミーティングは「これからの県政についての勉強会」と位置付けられ、村岡は1998年に成立したNPO法への期待も表しながら市民が主役となる社会の姿について語った。

ミーティングに参加した長谷川たちメンバーは、改めて石川の人脈の広さに驚いた。村岡兼幸が知事選に出馬することはすでに報道されていたので、彼が大物政治家を父に持ち日本青年会議所の会頭を務めたことは皆が知っていた。石川の態度からは村岡をとても信頼していることが感じられ、言葉にこそしなかったが選挙で村岡を応援して欲しいと求めていることは明かだった。
長谷川は村岡兼幸に会ってすぐその人柄に惹かれた。紳士的な態度には落ち着きが感じられ、目指す社会のあり方を説く話には頭の良さが感じられた。村岡から見れば長谷川たちトトカルチョマッチョマンズの多くは15歳下になるが、彼は相手が若いからといってぞんざいな態度をとることなく対等なスタンスで接した。

前の月に松村讓裕が司会するあきた夢塾で寺田知事と対決したばかりの長谷川は寺田と村岡との違いを思わずにいられなかった。二人の一番大きな違いはイーストベガス構想に対する態度だった。寺田の言動からはイーストベガス構想をまともに聞く意思がないことが伝わってきた。
それに対し村岡は自分たちが話すことに耳を傾けてくれた。イーストベガス構想に関してはすでに石川から概略を聞いていたらしかったが、長谷川たちの話をじっくり聞く姿には村岡の包容力が感じられた。長谷川は村岡が目指すまちづくりの手法に自分たちの活動との親和性を覚えた。市民の発意、市民の自発的な活動を基にして社会を形作っていく手法は、イーストベガス構想を実現しようとする活動の力になると思われた。
イーストベガス構想を説明する長谷川に、村岡は当選したらその活動を応援していきたいと応じた。

長谷川は石川直人の力でこの対面が実現したことに感激していた。国政にもコネクションを持つ大物に会い、直接イーストベガス構想を説明し、さらに自分たちの活動を応援するという言葉も聞くことが出来た。仮にも県知事候補ということは、村岡兼幸が秋田県知事になる可能性があるということである。
伊藤憲一が町長としてイーストベガス構想推進を表明してくれた時も長谷川は感激したが、今回はそれに優る高揚感があった。もし村岡が県知事になったら、イーストベガス構想は実現に向けて今まで想像さえしなかった速さで進むに違いなかった。

一方の村岡兼幸も長谷川敦に感心していた。事前に石川から長谷川の人となりやイーストベガスの活動内容を聞いていたが、実際に会って強い印象を受けた。自分が大手建設会社の跡継ぎとしていわば敷かれたレールの上を走っているのに、まだ20代の長谷川は自分で会社を興しその経営と並行して中学・高校の仲間たちと社会を変えようという活動を行っている。それは村岡の経験からすれば考えられないことだった。彼はイーストベガス構想自体を面白い発想だと思ったが、それよりも長谷川の行動力に驚いた。長谷川の性格には年齢差にもかかわらずこちらの心にすっと入り込むような、物怖じしない率直さがあった。

それまで長谷川敦は次の県知事選挙にどういう姿勢で臨むか決めていなかったが、この日を境にして、気持ちははっきり村岡兼幸に傾いた。
もともと長谷川は寺田典城に対して悪い感情を持っていた訳ではなかった。役人経験者が続いた秋田県知事に初めて民間出身者として就任し、彼ならではのやり方で県庁の食糧費問題に決着をもたらし、自民党が多数を占める県議会では少数与党を背景にしながら堂々と自分の実現したい政策を主張する寺田典城は、判官びいきを旨とする長谷川にとって応援したくなる人物だった。ただ一つ、長谷川が相容れないのが寺田のイーストベガス構想に対する「現実性がない」という考えだった。その一点を除けば、長谷川は寺田を尊敬こそすれ嫌う理由はなかった。

それに対して、寺田と対立する自民党は長谷川の嫌悪の対象だった。長谷川たちのような社会を大きく変えようとする若者に不寛容であり、新しく自由な発想より現体制を維持する秩序を重視する姿勢には、黙っていれば衰退していくだけの秋田を変える力はないと思った。だから、2000年6月の衆議院議員選挙の開票で、「ウェブ選挙」の質問に答えようとしなかった二人の自民党候補者に早々と「当選確実」がついたのを見て、長谷川は深い脱力感に囚われた。

しかし、その二人の自民党候補者のうち一人、村岡兼造の息子である村岡兼幸は、現実に自分と会い、イーストベガス構想を応援すると言っている。その一点で、長谷川は自民党が擁立した村岡兼幸に知事になって欲しいと思った。
それまでの県知事選挙は、長谷川にとって特に意味を持たない選挙だったが、次の知事選挙はイーストベガス構想を進めるうえでどう行動したらいいか主体的に考え行動すべき初めての選挙となった。

国際系大学関連予算が削除された平成13年度当初予算が修正可決された2000年3月8日をもって、秋田県議会2月定例会は会期を閉じた。この日から次の県知事の座を巡る戦いは本格化した。選挙告示は3週間後、3月29日に迫っていた。

(続く)