特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

『秋田にラスベガスを作る』 -ノンフィクション・イーストベガスの軌跡-

第8章「前進」 4.再訪

1997年8月9日、空は曇っていたが蒸し暑かった。夏の陽気の中でイネは出穂の時期を迎え、雄物川両岸の平地を緑色に染めていた。 雄和町役場から車で10分足らずの丘陵の上に秋田空港はある。その一帯は、屋根付きグラウンド「あきたスカイドーム」など種々の競技場を備えた県立中央公園スポーツゾーンとして整備され…

第8章「前進」 3.視察研修

1996年4月に長谷川敦が浦山からの誘いに応じて、夢広場21塾ヤング部会に仲間と結集した動機の一つ、それも重要な一つに「行政の力を利用して仲間をラスベガスに連れて行こう」という意図があった。 当然、長谷川はヤング部会の活動開始当初から、浦山に対して雄和町の制度を利用してラスベガスに視察に行かせてほし…

第8章「前進」 2.本質的な魅力

あゆかわのぼるがNHK秋田放送局の番組でトトカルチョマッチョマンズの活動を紹介した月の翌月、1997年6月、夢広場21塾ヤング部会は一つの活動成果を雄和町に提出した。 ヤング部会は前年の8月に社会教育課・浦山の発案で雄和町の新成人に対するアンケート調査を行った。電卓を片手に行ったアンケート集計には難…

第8章「前進」 1.ギャンブルフィーヴァー

夢広場21塾ヤング部会がたどたどしい歩みながら活動を続け、トトカルチョマッチョマンズが地域の中で存在を知られ始めていた頃のこと、長谷川は秋田市内の書店で一冊の本を発見した。それは店頭の平台に積まれた中公新書だった。 長谷川は学生時代からよく中公新書を読んでいて、深緑色のシンプルな装丁には馴染みがあっ…

第7章「発信」 2.知事へのラブレター

その頃、あゆかわのぼるは、NHK秋田放送局のローカル番組に週1回レギュラー出演していた。「アイeye秋田」というタイトルの番組で、放送時間は昼前だった。 長谷川からの誘いに応じて「トトカルチョマッチョマンズ結成会」に参加し若者たちと一緒に飲み語り合ったあゆかわは、彼らのエネルギーに感心し、その活動を…

第7章「発信」 1.直訴

1997年は、秋田県にとってエポックメイキングな年となった。3月22日、秋田新幹線が開業し、秋田駅と東京駅が約4時間の直通運転で結ばれた。7月には、秋田自動車道の未開通部分、北上西IC-湯田IC間の開通により、北上JCから秋田南ICまでが全線開通する予定となっていた。さらに翌年の1998年7月には、…

第6章「社会」 3.三浦廣巳の講演

年が改まった1997年の1月下旬、長谷川敦は一般の人たちにイーストベガス構想を話す機会を得た。それは、レディースフォーラムと同様に秋田県連合青年会が主催する「第41回秋田県青年問題研究集会」という催しだった。秋田市のジョイナスで開催され、地域の青年グループ代表や市町村の青年教育担当者など約40人が参…

第6章「社会」 2.面会

イーストベガス構想が生まれた年、1996年も暮れようとしていた。再び雪が地上の全てを覆い尽くし、雄和町は白一色の景色の中にあった。 夢広場21塾・ヤング部会メンバーたちは「21委員会からの提言・秋田をこう変えよう!」を繰り返し読んだ。長谷川は付箋だらけになった「秋田をこう変えよう!」の青い表紙を眺め…

第6章「社会」 1.経営者たち

社会人1年目の長谷川敦は、職業人として生活や仕事の内容にも次第に慣れ始めていた。 学生時代は、ともすれば深夜まで友人と酒を飲み昼近くに起きる日々を送っていた長谷川にとって、8時30分から午後6時30分までの勤務時間に合わせて規則正しく生活することに当初は戸惑いもあったが、毎日繰り返すうちにその生活リ…

第5章「集団」 3.レディースフォーラム

その年、秋田の夏は例年より涼しかった。アメリカでは7月下旬から8月上旬にかけてアトランタオリンピックが開催され、日本選手団が獲得したメダルは金3、銀6、銅5とやや低調だったものの、男子サッカーでは予選リーグでブラジルを1-0で破り、「マイアミの奇跡」と呼ばれた。 夢広場21塾ヤング部会、トトカルチョ…