特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第9章「企画」 1.拠点

雄和町・夢広場21塾ヤング部会がラスベガス視察研修に向けて準備を進めている頃、トトカルチョマッチョマンズも、1997年4月の「結成大会」以後に加わったメンバーを含めて新たな活動を始めていた。

長谷川や安田琢らが知事面会制度を利用して寺田知事と会った月の下旬、7月27日にはトトカルチョマッチョマンズは昨年に続いて「雄物川筏(いかだ)下り大会」に参加した。彼らは自動車用タイヤチューブと木材を主材料として、総員20人が搭乗可能な筏を製作した。缶ビールを詰めたクーラーボックスだけでなく生ビールの樽まで積み込んだトトカルチョマッチョマンズの大型の筏は、大会参加チームの中でも特に目立ち、地元紙「秋田さきがけ」が筏下り大会を紹介する記事には、その写真に使われた。

トトカルチョマッチョマンズの活動のベースとなるのが「トトカルチョミーティング」だった。1996年4月の発足以降、彼らはこのミーティングを月2、3回のペースで行ってきた。話す内容は、「ゴミ拾い大会」や「筏下り大会」といったイベントの企画が中心である。トトカルチョマッチョマンズは定まったミーティング会場を持っていなかった。毎回のミーティングは飲み屋に集まって飲みながら議論を交わすという形がほとんどで、記録もきちんと採っていないためせっかく話し会った内容が以後の活動に繋がらないこともしばしばだった。

ミーティングの度に場所を探す手間や支払う飲み代のことを考えてもこのままではいけないと、1997年4月のメンバー拡大を機にトトカルチョマッチョマンズはミーティング場所の確保に動いた。

自ら行動を起こしたのは安田琢だった。琢は「議論できる場所を提供して欲しい」と訴えに秋田県庁に向かった。そもそもトトカルチョマッチョマンズは「自分たちが楽しいように活動する」というプライベートな団体であり、その活動の場所を県庁に要求するのは唐突な行動だった。しかし、琢は「せっかく若い者が集まって秋田の将来を真剣に考えているのに、肝心の行政がそんな若者の存在を知らないでいいのか」と思っていた。

秋田県庁に着いた琢は、最初に受付の女性職員にトトカルチョマッチョマンズの自己紹介から始めて、活動の場所を探していることを説明した。最初はきょとんとした顔で話を聞いていた女性職員は、活動場所が欲しいという琢の来庁目的が分かると明らかに困惑した様子を見せた。それでもその職員は、話の内容に関連があると考えたらしい「広報課県政情報室」に連絡を取り、そこへ行くように琢に言った。

琢は教えられた部署に行き、そこでさっき受付でした話を一から繰り返した。しかし、話の内容を聞いた職員は自分たちの管轄事項ではないと判断したようで、今度は琢を「青少年女性課」という部署に連れて行った。

青少年女性課では、山田という女性職員と進藤という男性職員が琢に対応した。二人の県職員は琢が三回目に話す内容を真剣な表情で聞いた。琢は県庁に来て初めて、自分の話に正面から向き合ってもらっていると感じた。
最初から虫が良いと言える要望だったが、その要望に対して二人の職員はいろいろな方法を考えてくれ、結局、トトカルチョマッチョマンズは県庁の裏手にあった県警本部の隣の秋田県職員会館2階の部屋をミーティングスペースとして月2回くらいの割合で貸してもらえることになった。

同じ頃、トトカルチョマッチョマンズはもう一か所のミーティング場所を確保した。こちらは長谷川の仕事関係の繋がりから得られたものだった。
ある夜、長谷川はマスブレーンズコアが事務局をしている流通問題研究会のメンバーである一人の会社社長と飲んでいた。その社長には懇意にしてもらっていて、本音で話せる間柄だった。長谷川は社長にトトカルチョマッチョマンズの活動場所がなくて困っていることを相談した。話を聞いた社長は、地元の町内会の会館を使ってはどうかというアイデアを示した。
「俺の名前を言えば使えるようにしておくから」
その社長は言った。その場所は秋田市保戸野にある千代田会館だった。

1997年の6月以降、主に県職員会館と千代田会館を会場にしてトトカルチョミーティングが続けられた。新しいスタートを切ったトトカルチョミーティングの内容は、従来通りイベントの企画が中心だったが、話を聞きたい講師を呼んでの講演会の企画も話し合われた。ミーティングの内容については担当を決めてきちんと議事録も取った。
さらに、トトカルチョマッチョマンズは初めての試みも取り入れた。「ミニミニ講演会」と名付けられたその試みはミーティングの始めに行われた。これは、各ミーティングで一人か二人が講演者となり、みんなの前で話をするという内容である。「ミニミニ講演会」の目的は、各メンバーに自己表現の場を与えることだった。つまり、これから活動していくうえでプレゼンテーション能力が必要となるから、人前で話す訓練をしてメンバーの能力をレベルアップさせようという狙いだった。

ミニミニ講演会のテーマは講師が話したい内容であれば「何でもあり」だった。手始めに8月にラスベガス視察研修に行ったヤング部会メンバーたちによる視察研修の報告が行われた。加藤のり子は、自分に講演の番が回ってきた時、自分が関心を持っている「絵本」について話した。彼女は、絵本の実物をミーティングに持って行き、こんな大人も楽しめる絵本があるという内容をプレゼンした。
サラダ館で長谷川のイーストベガス構想を初めて聞いた時は、泣いて反対した加藤のり子だったが、この頃には「賛成」に態度を変えトトカルチョマッチョマンズの仲間と一緒に構想実現に向けて活動していく気持ちになっていた。最初、のり子はギャンブルということに拒否感が強く、競輪場や競馬場を雄和町に持ってくるというイメージから長谷川の「構想」にも強く反対したのだった。しかし、長谷川から繰り返し話を聞いているうちに「構想」はカジノ自体が目的ではなくもっと全体的な都市計画であり、カジノはその一部であるということを理解するようになっていた。

県職員会館と千代田会館を主会場とするトトカルチョミーティングは、約半年間続けられた。その間、秋田県・青少年女性課の二人の職員、山田京子主査と進藤晃弘主任とはどちらかがミーティングに同席した。県職員会館は県が管理する施設なので職員が同席する必要性も理解できたが、千代田会館でのミーティングにも彼らは参加した。目を離すと何をするか分からない危ういグループだと考えたのか、あるいはトトカルチョマッチョマンズのコンセプトに共感したのかは長谷川には分からなかった。

長谷川たちは、勤務時間外の夜遅くまでミーティングに付き合ってくれる二人の県職員に感謝しながらも、自分たちだけで自由気ままな議論が出来ないことに若干の居心地の悪さも感じていた。また、県職員会館でのミーティングは午後9時までという制約があって、時間的な不自由さがあった。
定例的に使えるミーティング場所が確保できたということは前進だったが、トトカルチョマッチョマンズのメンバーたちはもっと自由に使える場所が欲しくなっていた。

思いがけない所から、そのチャンスがもたらされた。
1997年11月29日と30日、雄和町を会場に秋田県が主催するリーダー研修会という催しが行われた。その催しに参加するため、佐々木三知夫がやってきた。佐々木三知夫は、秋田県庁に職員として勤めるかたわらさまざまな地域づくり活動を展開していた。多くの会を立ち上げ「会魔」と言われるほどだったが、佐々木が主催する主な会として「秋田を面白くする会」や「秋田ふるさと塾」があった。

「秋田を面白くする会」は、1971年(昭和46年)2月に、東京からUターン組の高校時代の友人4人が、秋田市内のおでん屋に集まって「久しぶりに秋田に帰ってきたんだから、なにか面白いことをしようや」といって出来た会だった。
最初の活動は、交通戦争へのささやかな挑戦だった。交通事故について調べているうちに多発地点がなだらかな右カーブにあることが分かり、右カーブ沿いの道ばたに黄色い花を植えたらドライバーへの黄色信号になるだろうと考え、仲間たちで月見草の種を右カーブ地点に蒔いた。
また、「花ゲリラ」という活動も行っていた。この世で一番欠けているのは情緒ではないと考え、秋田の盛り場である川反の柳並木の根元に朝顔の種を蒔いたり、水仙の球根を植えたりする運動だった。

「秋田ふるさと塾」は、1989年(平成元年)2月に、秋田県内の地域づくりを実践している仲間36人が集まって誕生した。情緒ある個性豊かな地域づくりを目指し、月一回、地域づくり実践セミナーを開催していた。

トトカルチョマッチョマンズのメンバーは雄和町での「リーダー研修会」で佐々木三知夫と初めて出会ったが、再会の機会はすぐにやってきた。その一週間後、夢広場21塾ヤング部会の講師として佐々木三知夫が決まっていたのだ。
12月6日・土曜日、雄和町のサイクリングターミナルを会場として、佐々木三知夫は夢広場21塾ヤング部会のために「最後は人間、人間性」というタイトルで講演した。
そのタイトルはソニーの創業者・井深大の言葉だった。佐々木三知夫が早稲田大学を卒業する年の卒業式で井深は交友代表として挨拶し、「君たちはこれから社会へ出る。世の中はそう甘いもんではない。厳しいものだ。でも、最後は人間だ。人間性だよ。」と言って演壇を離れた。佐々木の頭の中には、その言葉が強く残っていた。

佐々木三知夫は、講演の中で自身の活動も含め様々な地域づくり活動を紹介しながら、若い人は「遊び場がない」なんて言うが、それだったらアイデアを出すか、汗をかくか、自分で作ればいいだろうという話をした。「同じ後悔するなら、やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」と佐々木は言った。
それはトトカルチョマッチョマンズのコンセプトと一致する考え方だった。

講演会の後、佐々木三知夫は懇親会に参加してくれた。
懇親会の席で、長谷川はトトカルチョマッチョマンズの活動の場を探していると佐々木に相談を持ちかけた。「ゴミ拾い大会」などトトカルチョマッチョマンズの活動内容を聞いて面白いと思った佐々木は、即座に解決策を提示した。

佐々木がふるさと塾の活動に使っている「川反塾舎」と呼ばれる場所があった。それは、1階に「レディ」という老舗のバーがある川反の飲食店ビルの3階にあった。ふるさと塾の地域づくり実践セミナーを開催するのは第4金曜日、つまり月のうち一日だけであり、その他の日は空いている状態だった。佐々木三知夫は、その空いている日ならふるさと塾「川反塾舎」をトトカルチョマッチョマンズが自由に使っていいと言ってくれた。

こうしてトトカルチョマッチョマンズにはほぼ自由に使える活動の拠点ができた。1997年12月以降、トトカルチョミーティングは川反のふるさと塾を会場として行われることになった。

そんな頃、ふるさと塾でのミーティングに一人の新しいメンバーが加わった。
長谷川や奈良真たちの秋田高校時代の友人、進藤岳史だった。進藤は高校1、2年の時に奈良真と、高校3年の時は長谷川と同級生だった。彼は高校卒業後、東京の専門学校へ進み都内の会社に勤めていたが、1997年の夏に秋田に戻り秋田市内の会社に勤務していた。
長谷川や安田琢、奈良真は、秋田に帰ってきた進藤をトトカルチョマッチョマンズの一員に加えようとしたが、最初のうち彼は関心が無い様子で長谷川たちの話に乗ってこなかった。しかし、仲が良かった奈良や長谷川たちと付き合いを再開し何度か誘いを受けるうちに、トトカルチョマッチョマンズのミーティングに顔を出すようになった。