特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第9章「企画」 3.事件前夜

長谷川敦は考えていた。
「つまらない秋田を面白く作り変えよう」それがトトカルチョマッチョマンズのコンセプトなら、伊藤敬が考え出した「警察ごっこ」はまさにそのコンセプトを実現するものじゃないか。こんなに面白いゲームならもっと大勢の人を巻き込んで大規模にやるべきだ。それはもう遊びじゃない。俺たちが街に影響力を発揮する「事業」だ。

長谷川が思い浮かべた「事業」という言葉には二つの意味があった。
一つめは、「一般の参加者を対象にするイベント」という意味である。この前の「笑う大捜査線」は仲間内の遊びに過ぎなかったが、次はトトカルチョマッチョマンズのメンバーが全員スタッフとして裏方に回って一般の人たちを参加者として集め、その人たちを楽しませるイベントにしようと長谷川は考えた。考えは膨らんでいった。
その参加者には、数人から成るチームを作ってもらうルールにしよう。事件の謎を解くには「笑う大捜査線」の時のようにチーム内での協力や役割分担がカギになるはずだ。そして、参加チームからは参加料をもらおう。それだけの面白さは絶対ある。

トトカルチョマッチョマンズにとって、一般の人を対象にしたイベントは雄和町での「レディースフォーラム」以来となる。ただし、レディースフォーラムの時は、時間、場所、目的など枠組みが決まっていた中でのイベント企画・運営だったが、今度は真っ白なキャンバスに絵を描くように何もない所から自分たちで全てを考えなければならない。

「事業」という言葉のもう一つの意味は、「企業などから協賛金を集めて行う」という事だった。長谷川はしっかり金をかけてこのイベントをやりたかった。協賛金を集めることでこのイベントは「お遊び」ではなく「社会的な事業」になる。企業や街の人から協賛金を集めるためには、当然、イベントの内容や活動の趣旨を説明し理解してもらう必要がある。その機会に、イーストベガス構想についても説明し理解してもらう。長谷川にとって、それが協賛金を集める第一の目的だった。

もちろん金自体も必要だ。長谷川には、イベントの参加者に賞金を出すというアイデアがあった。
自分たちは実際にやってみて面白さを知っているが、どれだけの人がこのイベントを面白いと考え料金を払って参加してくれるのか、まったく見当が付かない。真っ先に真相を解明した参加チームに賞金を出そう。それも1万円や2万円じゃだめだ。1位のチームには10万円の賞金を出そう。その金額なら参加者を集めるインパクトになる。
お金が必要な理由はそれだけではない。大規模なイベントをやるからには、「アイテム」などの仕掛けも大掛かりになる。それに、たくさんの人を集めるには広くイベント実施の告知をしなければならない。そのためにはかなりの費用が必要だ。
すでに長谷川の脳裏には、秋田市の街中に貼られたイベントのポスターがイメージされていた。

「笑う大捜査線」を行った日の次のトトカルチョミーティング、7月29日・水曜日、長谷川はみんなの前に立って言った。
「この前やった『笑う大捜査線』、あれを一般の人たちを集めて大イベントとしてやるぞ」
その言葉を聞いたメンバーたちは盛り上がった。ゲームとしての面白さは自分たちが体験済みである。イベントに参加した大勢の捜査員が街中に散らばって犯人を追い求めている光景がメンバーたちの頭に浮かんだ。その想像はみんなの胸を躍らせた。面白くなりそうだった。

8月18日・火曜日のミーティングでは、拡大版「笑う大捜査線」の実現可能性についてさらに話し合った。みんな乗り気だった。基本的なゲームの枠組みは「笑う大捜査線」を継承する。そしてスケールをうんと大きくする。参加者は数十人、もしかしたら数百人になるかもしれない。そのためには一般の人たちにイベントを告知し参加チームを募集する仕掛けが必要となる。

長谷川は、「みんなで知り合いや企業を回ってイベントの協賛金を集める」という計画を話した。それを聞いたメンバーたちは戸惑った。トトカルチョマッチョマンズは今まで企業から協賛金なんて集めたことはない。こんなゲームのためにお金を出してくれる奇特な会社がはたしてあるのだろうか。みんなの顔には、そんな不安が浮かんでいた。
「大丈夫、大丈夫だって。みんなミニミニ講演会でプレゼン能力を磨いてきたよな。それは何のためだ?この時のためだべ。頑張ろう。」
長谷川はそう言って押し切った。

9月4日・金曜日のミーティング、トトカルチョマッチョマンズはイベント実施を正式に決定した。
実施日は11月15日・日曜日。準備のためには実施日を出来るだけ繰り下げたい。ただし、11月下旬まで延ばすと秋田市では雪が降る可能性がある。自動車で街中を駆け巡るゲームに雪は禁物だ。それを考えると、11月15日というのはギリギリの線だった。10月4日・日曜日にリハーサルを行うことも決定した。
実施日までもう2か月余りしかなかった。トトカルチョマッチョマンズは実行委員会を立ち上げ、イベントの準備をスタートさせた。主要スタッフは実行委員長の長谷川以下17人。スタッフはみんな社会人であり各自の仕事を持っている。したがってイベントの準備活動は、平日の夜間と土日などの休日に限られる。時間的な余裕がない中で、これ以後、ミーティングは頻繁に行われた。

メンバーたちは「このイベントをやりたくてやりたくてたまらない」という気持ちで夢中になっていたが、実行委員長になった長谷川はこの時、イベントを実施することのリスクを意識していた。
実際、リスクは山ほどあった。全くの白紙から作り上げるイベントということは、従うべき手本やフォーマットがどこにもないということでもある。大勢の参加者を集めるのはいいが、本当に大人数が参加するゲームとして成立させることが出来るのか、その保証はどこにもない。
仮にゲームを成立させる実行手順を作ることが出来たとしても、実施日までの期間でイベント実行の準備が間に合うのかも分からない。初めてのイベントであり、準備にどれくらいの作業、時間が必要なのか知っている者は誰もいない。

参加者が何人集まるかも未知数だった。誰も体験したことのないイベントの面白さをどうやって多くの人に伝え分かってもらうのか、その事一つとっても簡単なことではない。
そして長谷川がこだわった「お金をかけてやる」という点からもリスクが生まれる。万が一、どこの会社や知り合いも協賛金を出してくれなければ、イベント実施にかかる費用は全額自分たちの持ち出しになる。
しかし、実施を正式に決めた以上、トトカルチョマッチョマンズはもう前に進むしかなかった。みんなで同じリスクと責任を背負い、まだ形のないものをゼロから作り上げていくプロセスは、失敗への怖れと同時にスリリングな熱狂を彼らにもたらした。

3日後の9月7日・月曜日のミーティングでは、まず主要な役割を二つの班に割り振った。
一つ目は、外部との交渉を担当する班だった。その班は「外務省」と命名された。外務省のメンバーは、長谷川敦、安田琢、石井誠、コロボックルなど6人。外務省のミッションは、資金調達、広告宣伝、その他の渉外活動。これらのミッションはイベントを「事業」と位置付けたことから生まれたものであり、従来のイベントでは発生しないものだった。

もう一つ、ストーリー作成を中心に担当する班が作られた。その班は「内務省」と命名された。内務省のメンバーは、企画の生みの親・伊藤敬に加え、進藤岳史、奈良真、伊藤一葉、伊藤次郎。内務省には、ストーリー作成以外にも、リハーサル準備、チラシ・パンフレット作成、小道具準備等のミッションが与えられた。

外務省、内務省に所属しない斎藤美奈子、加藤のり子、長谷川美由紀、鈴木美咲たちは、庶務担当となった。そのうち斎藤美奈子は会場係のリーダーを、加藤のり子は参加者への粗品を用意する係のリーダーを担った。

彼らは、イベントの総事業費を50万と見積もった。内訳は、賞金10万円、広告宣伝費20万円、その他経費10万円、参加者への粗品等10万円である。事業費が50万円と予想されたことは、外務省が50万円を調達する責任を背負うことを意味した。彼らに課せられた期限は10月10日だった。

9月14日・月曜日、外務省は会議を開催した。調達期限まであと1か月を切っていた。それまでに50万円を集めなければならない。資金調達のリーダーになった長谷川は、その役割にふさわしい統率力を発揮した。
彼はまず各メンバーの調達目標を一人5万円に設定した。外務省のメンバー6人が5万円ずつ集めても合計30万円であり、50万円にはまだ20万円足りない。ただし収入としては、協賛金以外に参加チームから集める参加費も見込める。長谷川は、それでも足りない分は自分が集めるつもりだった。
外務省、資金調達部隊の活動日は、毎週土曜日に設定された。彼らは土曜日の朝、秋田市茨島交差点に近いセガのゲームセンター駐車場に集合し、朝礼を行った。朝礼では長谷川が目標達成に向かって頑張ろうと気合いを入れ、全員テンション高めて各自のターゲットに向かい、営業をかけた。

資金調達のターゲットは、家族・親戚や知人がやっている会社で羽振りが良さそうな所、お金を出してくれそうな何らかの繋がりのある個人だった。彼らは営業ツールとしてトトカルチョマッチョマンズのコンセプトなどを記載した用紙を持ってターゲットを訪問し、協賛の協力を依頼した。協賛金の目処は、1先あたり5千円から3万円くらいとした。営業をかける際には、イーストベガス構想についても説明し理解を求めた。
ある土曜日、長谷川敦はターゲットの一つである知り合いの会社を訪問していた。彼は、トトカルチョマッチョマンズの活動やイベントの趣旨を説明した後、次のように話した。
「5千円でいいのでお願いします。頑張ります。秋田を作りかえます。」

長谷川はメンバーごとに目標達成の進捗状況を表にして管理し、成績優秀者を表彰した。
その結果は総じて予想以上に順調だった。知り合いということもあって、誠意を持って話をすればほとんどのターゲットが協賛金を出してくれた。
「秋田にラスベガスを作る」というイーストベガス構想の説明に対しては、おしなべて「元気が良くていいね」といった反応だった。構想を初めて聞く方からすれば、その内容は相当突飛な話であり、反対とか賛成とかの意見を言うような対象ではなかったのだ。

外務省には資金調達の他にも参加者を募集する「宣伝広告」という重要なミッションがあった。一般の参加者を対象とするイベントであるからには、参加者が集まらなければ文字通り始まらない。広告宣伝については、報道機関に勤める安田琢が責任者になった。

広告宣伝の方法としては、まずポスターの制作、掲示が主要な手段として計画され、次に雑誌、ラジオ、テレビなどメディアへの露出が検討された。
秋田魁新報社で営業を担当する琢は、業務上の知識をフルに活用し八面六臂の活躍を見せた。まず主たる宣伝手段となるポスターに関しては、実行委員会メンバーの一人と繋がりのある印刷デザイン会社に依頼して作成することにした。印刷費用はイベント事業費中、参加者への賞金と並んで多い約10万円を見積もった。
メディアへの露出で大きな効果が期待されたのが、地域情報紙「あきたタウン情報」への記事掲載だった。琢はあきたタウン情報の藤田編集長と親戚であり、頼み込んで見開き2ページのイベント紹介記事を載せてもらうことを承諾してもらった。

この間、内務省では伊藤敬と進藤岳史の二人が中心となりストーリー作りに没頭していた。彼らは主に秋田市横森の敬の自宅で作業を行った。ただし、その作業は難渋を極めた。彼らが取り組む事件のストーリーは単なる「謎の設定と謎解き」ではない。謎解きの過程で、秋田市街を舞台にして数十人、もしかしたら数百人の「捜査員」が実際に動くのだ。敬と岳史が組み立てるストーリーはその捜査員の動きを内包するものだった。いつ、どこで、どういう情報を捜査員に与え、事件解明に誘導するのか。犯人をどのように逃亡させ、どこで捜査員に逮捕させるか。二人は、秋田市街地の地図と首っ引きでストーリー作成に取り組んだ。時には実際に街の現場まで足を運んで付近の状況を確かめた。地図を見るだけでは分からない、捜査員や犯人がどう動けるかという状況をつかむためだった。

参加する捜査員の数から考えると「笑う大捜査線」のように犯人が一人ではストーリー展開が難しいと思われた。二人は逃亡する犯人を複数にし、時間を追って一人ずつ逮捕されていくように仕組んだ。
敬と岳史が作成するストーリーは「ホワイトヘッド」または「サンドマン」というコードネームで呼ばれていた。

10月2日・金曜日のミーティング。この日までにイベントの概要が決まった。
参加チームは原則1チーム5人とするが、1人から4人のチームも参加を認める。ただし何人のチームでも参加料は1チーム5千円。参加チームは、携帯電話またはPHSを最低1台を携帯すること、1台ないし2台の乗用車を用意することを条件とする。携帯電話、PHSは本部からの情報伝達ルートであり、乗用車は捜査チームの移動手段だ。この点は「笑う大捜査線」のやり方を踏襲した。参加予定人数は100人に設定した。
この日のミーティングでは、イベントタイトルも正式に決められた。決定したタイトルはシンプルに「大捜査線」だった。

10月に入って秋が深まる中、「大捜査線」の準備作業は加速した。
10月4日・日曜日、実行委員会のメンバーは全員でリハーサルを行った。一つ森公園を起点に実際に街中を動いてみて、敬と岳史が作成したストーリー通りに捜査員たちが動くことが可能か確かめた。やはり実際に動いてみなければ分からないこともあるもので、後半部分に問題点が見つかった。敬と岳史は早速、それを修正する作業に取りかかった。

捜査本部となるイベント会場の手配も必要だった。彼らは始め、秋田県立体育館か秋田市立体育館を候補として考えていた。しかし、それらの体育館の使用は管理者によって拒まれた。「得体の知れない奴らには貸せない」というのがその理由だった。ただ、秋田市の管理者はセリオンプラザなら貸せるという代案を示してくれた。

「秋田ポートタワー・セリオン」は、秋田市土崎(つちざき)の秋田港にある全高143メートルのタワーである。セリオンプラザはポートタワーに隣接する関連施設であり、多目的に利用できる体育館のようなホールや広間があった。結果からみると、イベント実行のためには市立体育館などよりもセリオンプラザの方が適していた。体育館では捜査本部という目的には広すぎたのだ。実行委員会はイベント実施日とその前日の2日間、セリオンプラザを借りる手配をした。

その頃、あきたタウン情報に載せる記事の原稿作成も大詰めとなっていた。2ページに渡って掲載する内容の作成はトトカルチョマッチョマンズに任された。彼らが作った内容は「大捜査線」の内容紹介と参加チームの募集だけでなく、トトカルチョマッチョマンズがどんなコンセプトでこれまでどんな活動をしてきたかという紹介も含んでいた。原稿には次のようなタイトルがついた。
「緊急報告 晩秋のパッとしない秋田の街を熱く燃え上がらせる注目のイベント
参加行動型ロールプレイングゲーム大捜査線 11月15日事件は始まる!」

10月中旬からは、参加者集めに繋がる広告宣伝活動が本格化した。
実行委員会委は、最初に参加申込みをどういう方法で受け付けるかを考えなければならなかった。トトカルチョマッチョマンズのホームページを作る計画はあったが、まだ実現しておらずネット経由の申込み受付はできない。そこで、次のような方法をとった。
最初に、参加希望者から電話をもらう。その際に相手の住所を聞いて、そこに参加申込書を郵送する。必要事項を記入した申込書を返送してもらい、同時に参加費用を指定口座に振り込んでもらう。申込書の到着および参加費用の入金を確認できたものを正式な申込みとする。
電話を受ける窓口も問題だった。スタッフは日中それぞれの職場で勤務しているため、常設の電話受付窓口を設けることができなかった。解決策として、川反にある代行業者に電話受付を依頼した。

10月20日、広告宣伝の主要手段と位置付けたポスターのデザインが固まった。ポスター全面に赤い地色に白抜きで秋田市街の地図が表示され、死体があった場所を示す鑑識の現場図面が大きく描かれている。上部には「都市型アクションロールプレイングゲーム 大捜査線」のタイトル。下部にはイベントの日時・場所、参加申し込み先が記載が記載されていた。このポスターを1,000枚印刷することにした。
10月25日、あきたタウン情報11月号が発行された。この中の「大捜査線」の紹介記事が初めて公にイベントを告知するものとなり、参加者募集がスタートした。

10月30日、ポスター1,000枚の印刷が完成した。実行委員会は秋田市街を数個のブロックに分け、ブロック毎に担当者を決めて全員で秋田市街全域にポスター貼りを行った。主な掲示場所は飲食店などの店舗だった。メンバーは各自の仕事が終わった夜間、担当ブロックの店舗をしらみつぶしに回ってポスターの掲示をお願いし、了承の得られた店には早速ポスターを貼った。コンビニにも掲載を依頼したが、そちらは断られた。

ラジオ、テレビ、新聞のマスメディアへの露出に関しては、安田琢や長谷川など外務省と進藤岳史が中心となって要請を行った。
テレビ、ラジオ番組への露出は、意外なほどスムーズに実現した。この面に関しては、マスコミにコネクションを持つあゆかわのぼるも力になってくれたが、各マスコミとも「大捜査線」の内容を話すと、今までなかったゲームを面白がって取り上げてくれた。
10月29日・木曜日のABSラジオ「ズンチャカメキメキ145」に進藤岳史、伊藤一葉、加藤のり子が出演したのを皮切りに、11月4日・水曜日までの1週間、エフエム秋田「ヒルサイド・アヴェニュー」、秋田放送テレビ「ワイドゆう」、秋田テレビ「井戸端チャンネル」などに、長谷川、岳史などが相次いで出演し、「大捜査線」の宣伝と参加チーム募集を行った。

琢の勤務先である地元紙・秋田さきがけ新報には、11月7日付の紙面に参加チーム募集の記事が掲載された。記事の中で「大捜査線」はこのように紹介された。
「参加チームが捜査員となり、同市内で発生した麻薬密売グループの脱走事件などを、市内各所にちりばめられたヒントを基に、聞き込みや推理力を使って事件を解決しようというゲーム。ストーリー性のあるオリエンテーリングといえるもの。」

10月25日の「あきたタウン情報」発行以降、電話受付代行会社ルートによる参加申込みが到着し始めた。当初、実行委員会のメンバーはそれこそ固唾をのむような気持ちで何件の申込みがあったか確認し、毎日、一喜一憂していた。申込みは、始めはぽつりぽつりと一日あたり数件が到着するだけだった。それが、11月に入って赤いポスターが秋田市街全域に貼り出され、テレビ・ラジオへの露出が相次いだ頃から急激に勢いを増し、当初の目標だった参加人数の100人をあっさりと超えた。

その頃、実施日まで2週間を切り、「大捜査線」実行委員会は戦場のような忙しさに陥っていた。広告宣伝活動はほぼ終了、敬と岳史が作成するストーリーも大体完成し、作業の中心は、イベント当日に使用する「アイテム」作成に移っていた。
彼らは、その時になってイベントを成立させるためには膨大な「アイテム」が必要なことを認識した。捜査の手かがりとなるヒントを書いた紙だけではない、捜査員がつけるIDカード、捜査の前提となる「実施日当日までの事件の経緯を書いたSTORY」など参加チームに渡すものだけでも多様な種類が必要だった。その他に、実行委員会が使うものもある。各メンバーの役割分担や当日の動きを記したシート、開会式のシナリオなど。それらペーパーだけでも想像を遙かに超える種類があった。そのうち捜査員に渡すものは参加チーム数だけプリントしなければならない。

長谷川敦は、ストーリーの「小説化」に取りかかっていた。これはストーリーを小説仕立てにしたものであり、イベント実施日の最後に参加チームに事件の真相として渡すためのものだった。
彼らが準備しなければならないのは紙媒体だけではなかった。捜査情報として当日捜査員に見せるビデオの撮影も行われた。また、イベント当日使用する携帯電話を十数台借りる手配も行った。これは捜査本部から各捜査チームへ情報を伝達するためのものだった。

実行委員会メンバーは、実施日が近づくにつれて本当に準備が間に合うのかという心配から極度の緊張を強いられていた。必要な作業量に比べて2か月余りという準備期間が短すぎたという思いがみんなの頭をよぎった。しかし、すでに参加チームからの申込みが続々と到着している状況で、彼らに退路は残っていなかった。

11月に入ってからの準備作業は、秋田市御野場にある結婚後間もない長谷川敦と美由紀の二階建て家で行われた。メンバーは昼間、各自の勤務先で仕事をし、それが終わると長谷川の家に集まり、イベントの準備に集中した。そして、睡魔に耐えきれなくなると男女ともにその辺で雑魚寝し、朝になるとそこから各自の職場に向かうという生活を送った。

そんな追い詰められた日々を過ごしながらも、実行委員会のメンバーたちはそれを苦痛に感じていなかった。24、5歳を中心とする若いメンバーたちは、今まで存在しなかったイベントを自分たちが初めて生み出す興奮と没頭の渦中にあり、1日24時間をフルに使う活動と睡眠不足の中にあっても、職場での仕事が終わってまた長谷川の家で仲間たちと「大捜査線」の準備を行うことを楽しみにしていた。

「大捜査線」実行委員会は、ついに11月14日・土曜日、イベント前日を迎えた。彼らはセリオンで、イベント実施のために机、イスの配置など会場準備を行い、リハーサルとして秋田市街を実際に動いて最後の確認を行った。リハーサルが済むと彼らは再び長谷川の家に集まり、最後の準備にとりかかった。明日の朝までにやるべきことはまだ山のように残っていた。長谷川はストーリーの小説化に集中していた。他のメンバーは主に印刷物やアイテム作りに向かっていた。
申込みの最終期限を設定していなかったため、実施日前日になっても飛び込みの申込みが何件か入って来た。参加人数は最終的に200人を超えた。

日付が変わって、イベント当日の11月15日・日曜日の未明、最後の準備作業が行われた。「笑う大捜査線」と同様、捜査のヒントとなる主要な「アイテム」は、電話ボックスの電話帳に挟み込まれたA4版の用紙だった。このアイテムはイベント直前に電話帳に挟む必要があった。イベント開催前に誰かが電話帳を開いてアイテムが失われることを避けるためである。
まだ夜が明けきらない時間、メンバーは街中に散らばり担当の電話ボックスに行って、電話帳にアイテムを挟み込む作業を行った。

こうして、「大捜査線」実行委員会はイベント当日の朝を迎えた。全員、一睡もしていなかった。