特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第11章「起業」 1.独立

井崎義治を秋田空港で見送ってから数日後の夕刻、長谷川敦は自動車を運転して国道7号線を北上していた。その日は本荘市(ほんじょうし)で仕事があり、秋田市に戻る途中だった。
本荘市は、秋田県南部を流域とし日本海に注ぐ子吉川(こよしがわ)の河口付近に発展した街であり、秋田市から約40㎞南にある。二つの街を結ぶ国道7号線は日本海の海岸沿いを走っていた。
北西の風を受けてざわめく日本海の白い波頭も、夕闇の中に沈もうとしていた。車内にいるのは長谷川一人だけであり、車を運転する彼の脳裏にはいろいろな思いが浮かんでは消えていった。「大捜査線2」と井崎義治の来訪、二つの大きなイベントを11月のうちにやり終えた長谷川には安堵感があった。

長谷川は井崎義治のレクチャーと講演を思い返した。それは専門家ならではの具体的かつ説得力のあるものであり、何よりイーストベガス構想を前進させるための温かい助言だった。思い返せば、猛暑の中で長谷川がエース総合研究所に衝動的に電話した時には、井崎にここまで親身になった対応をしてもらえるとは期待していなかった。「ラスベガスの挑戦」の著者と直接電話で話せたことだけで感激していたのだ。その井崎は自分たちだけのために3日間も費やしてくれた。長谷川は遠路秋田まで来てくれた都市計画の専門家に改めて感謝した。

脳裏に浮かぶ考えは、「大捜査線2~迷想の回転軸~」のことに移っていった。井崎来訪の準備と並行して進めた大捜査線準備の忙しさは熾烈を極め、イベント開催前の1週間は誰もがあまり睡眠を取れなかった。しかし、結果として得られた成果はトトカルチョマッチョマンズたちの奮闘に十分報いるものだった。1年前のイベントに比べると「大捜査線2」は全てにおいて格段にスケールアップした。
開催スタッフは17人から30人に、ゲーム参加者数は217人から約450人に、賞金総額は15万円から20万円に、協賛企業は約30社から86社に、総費用は約50万円から約100万円に拡大した。そして、自分たちが作り上げた行動参加型ゲームの面白さに多くの参加者が喜ぶ姿を見て、スタッフたちは前回を超える達成感を味わった。

長谷川の運転する車は本荘市から岩城町(いわきまち)を経由して秋田市内に入り、新屋(あらや)地区と市の中心部を結ぶ秋田大橋に差し掛かった。河口に近い雄物川の川幅は400メートルを超え、その上にかかる秋田大橋の全長は600メートル近い。辺りはすっかり夜の闇に包まれ、橋の上は夕方のラッシュで渋滞していた。のろのろと進む車の中で長谷川敦は考えた。

仲間たちと一緒にエネルギーをつぎ込んで成功させた「大捜査線」はもはや遊びではなく、事業と言える内容を備えている。「秋田を面白くする」という目的の下、目標を設定し、多くの企業に趣旨を説明して協賛金を出してもらい、スタッフを組織化して必要な役割を分担し、実施スケジュールと予算を立て、参加者を楽しませるコンテンツを制作し、様々なメディアを活用したイベントPRで参加者を集め、そして、「大捜査線」実施の結果として参加者たちを満足させ、収支もなんとかプラスにもっていけた。
この一連のプロセスは世の中のいろんな会社が行っている事業そのものじゃないか。俺たちはそれをやり遂げた。しかも、日中は各自の勤務先での仕事をこなした上で、夜間や休日の時間を使ってだ。この大きなイベントを成功させたのなら、どんな事業だって出来るはずだ。

長谷川の思いは、子どもの頃から抱いていた「秋田で事業を起こす」という目標に至った。
そうだ。今こそ、ずっと考えていた計画を実行に移す時だ。会社を辞めて独立しよう。
自分の考えに長谷川の胸は高鳴った。成算はあった。仲間たちと共に「大捜査線」を成功させただけではない。経営コンサルタントの仕事に従事する中で、彼は多くの経営者と会い交渉を行っていた。25、6歳の人間で、自分ほど多く県内の社長たちの知己を得ている者はいないだろうと思えた。その人脈は自分が事業を行う上で活用できるはずだ。

長谷川が入社したMBCマスブレーンズコアは、入社2年目の9月に「安心経営株式会社」と商号変更していた。彼は、この会社で多くのものを学んだ。営業活動でいろいろな企業を訪問する中で多くの経営者たちと会い、いろんな経営スタイルを知った。取引先企業の決算書を見る機会も多く、様々な企業の財務内容を知る立場にもあった。「自分が事業を始めるためのノウハウ習得」、それがこの会社を就職先に選んだ一番の目的だった。当初は5年を目途に独立しようと考えていたが、入社して約3年半、もうやるべきことはやり、必要なことは学び終えたように感じていた。

長谷川は、起業の手はずに考えを巡らせた。一緒に事業を始める仲間は、すでに頭にあった。まず、高校からの友人で気心の知れたコロボックル。そして奈良真。長谷川は独立、起業するという計画をトトカルチョマッチョマンズの仲間たちにも繰り返し話していた。そんな時、奈良の態度は肯定的だった。
「おう、いいねが(いいじゃないか)。いつやるんだ。」
一緒に事業を始めるメンバーは、まずこの二人だ。思い立った長谷川は、渋滞に巻き込まれた車の中から携帯電話で二人に招集をかけた。
「今日の夜さ、時間ある?うちに来てくれ。大事な話がある。」
秋田大橋の上で長谷川が決断した起業は、橋を渡り終える前に実行の過程に入っていた。

その夜、秋田市御野場にある長谷川の自宅の居間で、長谷川敦、コロボックル、奈良真が美由紀の手料理を肴に酒を飲んでいた。長谷川はコロボックルと奈良に話した。
「俺は12月で会社を辞める。会社を辞めて自分で事業を始める。一緒にやろう。」
コロボックルと奈良にとって、その言葉は意外ではなかった。二人とも、長谷川敦は彼自身の言葉通りいずれは独立、起業するだろうと思っていた。自分がその事業に参加するということも抵抗なく受け入れられた。二人は異口同音に答えた。
「分かった。一緒にやろう。」
長谷川は二人の覚悟を確かめるように付け加えた。
「よし、それじゃ、今年いっぱいを目途に今の会社を辞めてくれ。来年早々、新事業に向けて動きだそう。」

3人は事業をスタートする手順を話し合った。ついに起業を実行するという話は熱気を帯びた。事務所は、取りあえず長谷川の自宅に置こう。営業に使う自動車はどうする。机やイス、その他の備品はどっから調達しよう。ひとしきりそんな議論で盛り上がった後、長谷川は言った。
「ところで、何の事業をやろうか。」
彼らは、肝心の事業内容を脇に置いて話を進めていたのだった。

大学時代に友人たちと安い酒を飲みながら千差万別の事業計画を語り合って以来、長谷川は何枚もの事業計画書を書いていた。それは実現性の高いものから、ジョークに類するものまで様々だった。いよいよ現実に起業するに当たって長谷川と奈良、コロボックルは幾つもの事業内容を検討したが、最終的には二つに絞られた。
おにぎり屋とホームページ制作代行、それが最終候補に残った事業だった。「おにぎり屋」という選択肢は決して冗談ではなく、マーケットの大きさ精緻に見積もり注意深く練られた計画だった。川反の飲食店ビルの一階に、寿司屋のようなカウンター形式のおにぎり屋を開店する。その店は、酒飲みの「締め」として酔客たちや飲み屋のお姉さんたちに利用されるだろうという目論見だった。実際、同種の店は新潟にあり、長谷川はその新潟の店を見に行ったことがあった。事業計画では、堅くみてもしっかり利益を確保できる想定だった。

ただし、長谷川たちが最後に選んだ事業は「ホームページ制作代行」の方だった。おにぎり屋という商売は売上、利益の予想が立つという意味で現実的ではあったが、技術的には誰でも出来る事業であり、何もない白紙の状態からホームページを制作する事業の方がもっと面白そうだった。
世界中で数多くのネット系企業が勃興していた。アメリカではグーグルやアマゾン・ドット・コムが、日本では楽天市場が創業後まだ数年を経たばかりだった。日本では企業が自社のホームページを持つことも一般的になり始めていたが、秋田県内ではまだ普及が進んでいない状況だった。長谷川が多くの県内にある多くの企業を回った経験から言っても、自社のホームページを持っている所は極めてまれだった。第一、長谷川が勤務する安心経営自体もホームページを持っていなかったのだ。その状況は、これから県内企業のホームページ制作に対する需要が拡大することを意味した。

奈良真は大学時代からパソコンと親しんでいて、この年の7月には消費者向けパソコンソフトの「ホームページビルダー」などを使ってトトカルチョマッチョマンズのホームページを立ち上げていた。勤務先の住宅メーカーでは、若手ながらCAD(コンピュータによる設計)に最も精通した社員であり、導入するパソコンやCADソフトに関して所長と直接意見をやり取りする立場にいた。
長谷川も大学生時代から自分のパソコンを持ち、就職後は独学で身につけた知識を基に社内LAN構築やグループウェア導入について取引先企業を指導する仕事も担当していた。そういった二人のITリテラシーを考えれば、ホームページ制作代行という事業も何とかなりそうだった。

事業を始める仲間を決めた長谷川敦にとって、次の懸案は今の会社を辞めることだった。彼は勤務先の安心経営で、トトカルチョマッチョマンズやゆうわタウン創造プランナーズの活動と並行しての従事にも関わらず、目立った成果を上げていた。
税理士でもある安心経営社長の杉山隆は、日報を基に社員の活動内容を分析していた。杉山が営業担当者に関して重視したのは「キーマン面談率」という指標だった。これは勤務時間の中で、営業活動のターゲットとなるキーマンとの面談にどれくらいの時間を充てたかという割合であり、この割合が高いほど時間を効率的に使っていることを表す。杉山の経験上、このキーマン面談率が2割程度もあれば優秀な営業担当と考えることができた。ところが、この年の8月に杉山が長谷川と面接した際、長谷川のキーマン面談率は36.7%という高い数字だった。応接室での面接の際、杉山は長谷川に対して指示した。
「提案先のほぼ全てに会計パッケージを買っていただけるように、売り方の開発を準備してください。」
杉山が設定した「提案先のほぼ全てに買っていただく」という目標は言うまでもなく極めて高いハードルであり、それだけ杉山が営業担当者としての長谷川に期待していることを意味していた。

その面接から約3か月後の11月末、同じ応接室で長谷川敦は社長の杉山隆と対面していた。長谷川は杉山に切り出した。
「安心経営を退社して独立しようと思います。」
杉山社長は答えた。
「おー、そうか。頑張りなさい。」
長谷川が述べた退社の申し出は杉山にとって想定されたものだった。長谷川は就職面談の際に「いずれ独立して事業を始めたい」という希望を述べており、杉山もそれを承知の上で長谷川を採用したのだ。

杉山隆は「人生企画」という考えを大事にしていた。家族や友人という人の面、お金の面など、いろいろな観点から自分にとって大事なものを見極め、今後の人生をどう生きていくかはっきりした計画を持つべきだ。それが「人生企画」の意味だった。その考え方から言って、長谷川のように自分で事業を始めるという明確な目標を持っているのは望ましいことだと杉山は思っていた。したがって、営業担当としての長谷川に社長として期待するところは大きかったが、独立するという長谷川を快く送り出すことにした。
「ミレニアム(千年紀)」という言葉が巷を騒がせていた1999年12月末、長谷川敦は安心経営株式会社を退職した。

一方、奈良真は長谷川の起業に加わることについて、妻、美香子の大反対に遭っていた。美香子は結婚後も奈良真と同じ住宅メーカーに勤務し続けていた。共稼ぎではあったが生活は楽な訳ではなく、夫が退社して新しい事業を始めることに美香子の不安は大かった。事業が成功する保証はどこにもなく、ちゃんと給料が出るかどうかさえ定かではなかった。
奈良真は、そんな美香子を押し切ろうと言った。
「もう決めたんだ。長谷川にもそう言った。やるんだ。」
もちろん美香子にすれば、そう言われたからといってすぐに納得できるような話ではない。美香子の気持ちが変化するきっかけとなったのは、夫、真と一緒に長谷川の自宅に招かれ、敦、美由紀夫妻やコロボックルと鍋をつつく機会を持ったことだった。その時、長谷川の起業を当たり前のように考えている美由紀の様子を見て、美香子の態度も次第に軟化していった。

なんとか美香子の同意をもらった奈良真は、勤務先である住宅メーカーの所長に退社の話を持ち出した。所長から帰ってきたのは思いがけない言葉だった。
「このことは、結婚する時から決めていたのか。」
所長が言っているのは奈良の結婚式での参列者のスピーチの事だった。奈良真と美香子の結婚式は、職場結婚ということもあって親戚を除く出席者はほぼ職場の上司、同僚とトトカルチョマッチョマンズの仲間だけだった。その席で、友人代表として挨拶した長谷川はこんなことを言った。
「奈良は前から会社を辞めると言ってるけど、一体いつ辞めるんだ。」
それは酒を飲んだ上でのまったくの冗談だった。しかし、所長はその言葉を覚えており、今度の退社願いと結びつけて考えたのだ。それに気づいた奈良は慌てて否定した。
結局、奈良真の退社は美香子が会社に残ることを条件に認められた。退社の時期は新年1月末と決まった。

年が明けて、20世紀最後の年、2000年となったばかりの頃、長谷川たちは、新事業に4人目のメンバーを迎えることになった。長谷川の2年後に安心経営に入社した夏井麗(なついうらら)だった。
麗は長谷川の妹、由美子の高校生時代からの友人であり、長谷川家に泊まりに来るほどの親しい関係だった。当然、長谷川敦も麗もお互いの存在を知っていたが不思議とすれ違いが多く、実際に顔を合わせた場面は1、2回に過ぎなかった。
秋田大学の4年生となった麗が就職活動で安心経営を訪問した際、採用担当は長谷川敦だった。長谷川が安心経営に来た麗を見た瞬間、彼の頭には一つの策略がひらめいた。
自分が事業を始める時に、夏井麗を経理担当にしよう。
夏井麗は、採用担当の長谷川がつけた採点に基づき、安心経営始まって以来の好成績で入社した。さらに長谷川は、麗が顧客企業の会計を検査、指導する「監査」という部門に配属されるよう計らった。麗は会計知識を順調に身につけ、入社2年目には監査の仕事を一通りこなせるようになっていた。長谷川は自分の策略を麗に話した訳ではなかったが、それとなく匂わせてはいた。

長谷川は、自分が安心経営を退社したちょっと後に夏井麗も退社したという話を聞きつけた。麗が会社を辞めたのは、現在の仕事に以前ほど意欲を感じられなくなっていた事が理由だった。彼女が就職先として安心経営を選んだのには、経理を身につけたいという目的があったが、その目的も一通り達成したように感じていた。端的に言って麗は同じ仕事を続けることに飽きていた。
長谷川は安心経営を辞めた麗に会い、新しく始める会社の経理を担当して欲しいと頼んだ。自宅に戻った麗は母親に相談した。その話を聞いた母親は麗の予想以上に乗り気だった。長谷川の妹と麗との付き合いから、母親は長谷川家のことも知っていたが、長谷川敦についてもトトカルチョマッチョマンズでの活動も含めて良く知っているようだった。母は麗に言った。
「長谷川敦はすごい人なんだから。彼の所で働くんだったら、無給でもいいから行きなさいよ。」
麗自身、起業の現場に立ち会うというめったにない機会に興味を抱いていたし、母親の言葉に力を得て長谷川の頼みに応じることにした。夏井麗は長谷川の自宅を訪ね経理担当として起業に加わることを承諾した。その答えを聞いた長谷川敦は、自ら「棒ラーメン」を調理して麗に振る舞った。

こうして新会社の設立メンバー4人、長谷川敦、奈良真、コロボックル、夏井麗が揃った。株式会社の資本金は1千万以上であることが必要だった。資本金は、長谷川敦、コロボックル、奈良真が出し合い、安田琢も50万円を出資した。それでも足りないところは長谷川の父親に出してもらった。
彼らは長谷川の自宅2階の6畳間で設立準備を進めた。設立登記に必要な手続きは主に長谷川が担当した。2月中旬に設定した新会社設立予定日が次第に近づいてきた。しかし起業を実現するためには、解決しなければならない問題がもう一つ残っていた。それは設立する会社の社名だった。