特定非営利活動法人
イーストベガス推進協議会

第4章「始動」 2.バイブル

九州、そして本州を北上した桜前線は秋田県に到達した。桜の花びらが舞う中、長谷川敦と仲間たちは夢広場21塾・ヤング部会の活動を開始した。

彼らは部会を1~2週間に1回のペースで開いた。
開催日と決めた平日の夜、長谷川はマスブレーンズコアでの仕事を終えると秋田市から自分の車で雄和町に戻り、その足で改善センターに向かった。他のメンバーたちも各自の仕事が終わってから、午後7時半に改善センターに集まった。

イーストベガス構想に明瞭な形を与えること、それがヤング部会が取り組むべきミッションだった。その構想は今、長谷川の頭の中だけにある。必然的にヤング部会は長谷川がリードして進めることになった。

そもそも、イーストベガス構想はまだ思いつきの段階にあり、漠然としたアイデアに留まっている。「構想」として示すためには、中心となる考え方を明確にし、曖昧な細部を詰めてはっきりとした輪郭を与える必要がある。そして、その完成した構想を人に理解してもらうには、いずれは文章や図表や画像を使い、文字通り「見える形」にまとめなければならない。

まず取り組むべき課題はコンセプト作りだ。長谷川は思った。
ラスベガスを手本にすると言っても、形ばかりを真似てもしょうがない。一体、どういう理念に立脚して街づくりをするのか、コンセプトを明確にしなければ説得力がない。それから、街に世界中から人々を集めるだけの魅力を与えるためには、どんな要素から構成するのか、コンテンツの組み合わせを考える必要がある。

とは言え、ヤング部会をこれからどうやって進めていくか、長谷川にもはっきりした方針がある訳ではなかった。当面、構想のコンセプトやコンテンツを考えるために参考となる資料を探しながら、それと並行して、その日の部会のテーマを決め、みんなで意見を出し合うことから始めることにした。

改善センター2階の一室に集まった長谷川や伊藤敬、美奈子たちは、蛍光灯の明かりの下、テーブルをコの字型に並べてその周りに座った。中央の席には長谷川が座った。部会には、社会教育課の浦山も参加することが多かった。ヤング部会は雄和町の事業であり、浦山はお目付役として部会の内容を記録し、メンバーたちの議論の行方を見守った。

ヤング部会をスタートさせるに当たって、長谷川は、まずイーストベガス構想についてもう一度説明した。部会メンバーには繰り返し説いてきた内容だったが、自分の頭にあるアイデアをメンバーに共有してもらうことが重要だった。長谷川は、このアイデアをどういう所から思いついたのか、手本にしたいと思ったラスベガスがどういう街だったのか、ラスベガスへの旅行に遡って話し始めた。

そんなふうに、長谷川と仲間たちがイーストベガス構想の実現に向かって最初の歩みを始めていたある日のことだった。
勤務先、マスブレーンズコアの社内で仕事に使う資料を探していた長谷川は、書棚にある一冊の本に眼を止めた。

「秋田をこう変えよう!」
青い背表紙にはオレンジ色の文字でそう書かれている。長谷川はタイトルに惹かれ、書棚から本を抜き取った。背表紙と表紙には、「21委員会からの提言」というサブタイトルが付いていた。

21委員会は秋田県経済界の若手経営者、経営幹部を中心メンバーとし、活力ある明日の秋田を作るために考え、行動しようという組織だった。21委員会が行った活動で県民の注目を集めたものに「21の翼」交流事業がある。これは、雄和町にミネソタ州立大学秋田校が開校されたことを契機に、秋田県とミネソタ州との交流を深めようと住民の相互訪問を行った事業である。特に、事業初年度の1992年には旅客機をチャーターして秋田県から345人の大デレゲーションをミネソタ州に送り込み話題となった。

長谷川が手にしている「秋田をこう変えよう!」の発行元は秋田文化出版、奥付には「1993年9月3日初版第一刷発行」とあった。それは、21委員会が秋田県の発展に向け提言書としてまとめた本だった。

長谷川はページをめくった。日銀前秋田支店長の序文に続いて、21委員会の須田精一会長による「はじめに」という文章が掲載されている。長谷川はその中の記載にショックを受けた。
それは、「いま秋田県の最重要課題は『人口減』と『県民所得の低さ』である。」に始まる段落だった。その文に続く部分で、昭和三十一年には約135万人の秋田県の人口が現在(1993年)120万人まで減少したこと、65歳以上の高齢人口が17.2%を占め、それが2010年には28.5%まで膨張すること、おびただしい若年層の県外流出があることが述べられていた。

それはまさに、3月のあゆかわのぼるの講演で語られた事であり、長谷川自身がフラストレーションを感じている対象そのものだった。それが「秋田県の最重要課題」と規定されている。
続く文章を読み進めたい気持ちに駆られながらも、勤務時間中にいつまでもその本を読んではいられないという自制が働き、長谷川は後ろ髪を引かれる思いで本を書棚に戻した。

その日の仕事が終わると長谷川は早速書店に向かった。地元出版社の本が並ぶコーナーで「秋田をこう変えよう!」はあっさりと見つかった。その本を買った長谷川は、自宅に戻るとすぐに本を開き、ページを繰るのももどかしく読み進めた。

「はじめに」の後の本編は六つの章から構成されていた。第1章で秋田の現状が分析され、第2章では有識者による座談会があり、第3章の秋田を変えるための30の提言へと続いている。

第1章「秋田の現状」は人口に関する第1節と、経済に関する第2節から成り、そのどちらも長谷川の気持ちを暗くするに十分な事実を突きつけていた。
人口に関しては、秋田県での若者の県外流出や出生率の低下が、人口減のみならず人口の高齢化を加速させ、現在(1993年)は高齢化で全国8位の秋田県が17年後の2010年には全国1位となる可能性があると述べられていた。そして経済については、労働集約型となっている秋田県の製造業は労働生産性が著しく低く、これが「一人当たり県民所得」の低さに繋がっていることが分析されていた。

この現状分析を土台とした第2章の有識者座談会「秋田はどうなる」は、さらに長谷川の心を揺さぶった。
座談会の出席者は秋田県内の大学、短大の教授やジャーナリスト、経済研究所所長、21委員会の須田会長を含む企業経営者、つまり、秋田県の中心となり地域を引っ張っている大人たちだった。

座談会全体を貫くテーマは「人口減少」と「県民所得の低さ」であり、その二つは密接に関係しているという認識が示された。一人のジャーナリストは、人口減少が続く秋田の将来について「確実に“滅びの道”を歩いている」と痛烈な言葉を使った。
その発言を継いで、大学教授が話した。
人口が減少するということは高齢者の割合が高くなるということであり、つまり社会の活力の推進の主体が少なくなり、活力は衰退する。人口は経済の諸問題の基本をなすものです。

しかし、人口減少や低調な経済状況に対して行政は具体的な施策を打ち出していない。出席者たちはそう批判した。
あるジャーナリストは言った。
青年の県外流出が大変だと、結婚難が大変だと、どの市町村も頭に上げているわけですね。でも、ただ嘆いているだけで具体的施策はなにもない。具体的なハウツーがないのです。
21委員会会長も発言した。
たとえばこの『21世紀の秋田の発展計画』を見ても、“新しい故郷秋田をめざして”となっているけれども、“ゆとりと活力に満ちた”とか“足腰の強い産業”とか、形容詞の羅列なんだよね。何もないわけですよ、具体的なものが。

一人の大学教授は、地域の魅力に関して身近な事例を紹介した。
ある学科の教官を補充しなければいけないが、なかなか県外から秋田には来てくれないという現実があります。秋田には魅力が少ないというのが一つの理由なんです。たとえば金沢大学に行くということでは、金沢が持つ魅力がありますし。魅力さえあれば民間企業でも研究所でも来てくれると思うわけですが、全国で転勤というと来たがらない土地の一つに秋田があがるという話をよく聞くんです。

地域の魅力について、他の出席者たちも口々に言った。
自然が豊かだ、人情がこまやかだということだけで、人が集まりますかね。どこにだって自然はあるし、どこにだって立派な川があるし、どこにだって歴史があるんだもの。それだけが秋田の魅力だと言われれば困るんだよね。
地域の魅力について司会者も発言した。
秋田市に核となる顔がない。秋田県にも核がない、顔がないんだという、そこが都市としての魅力に欠ける。それを再構築していかないと、どんどんじり貧になっていく。

秋田県という地域で若者が置かれている状況についても言及があった。
ジャーナリストは、次のように若者の意見を代弁した。
若者に聞くと、親も物分かりがよくないけれど、地域社会の大人たちが変わらない。二言目にはこの若造がなにをいってるかとか封建的要素が、未だ頑として変わっていないと。村全体ではまだ化石のうえにどっかりあぐらをかいている。したがって面白くないと。知的興奮が地域社会に満ちていない。
それを受けて21委員会会長も言った。
青年のやる気に心よしとしないところがあるんだよね。今秋田県で青年の夢に、何を与えられるのか、どういう方向付けをしてやれるのか、何もないでしょう。

長谷川が読んでいて、特に心に響いたのは須田会長の次の言葉だった。
「とにかく夢がないのが秋田県だ。弊害論だけが優先して何もできない。」
長谷川はその箇所に二重ラインを引いた。

座談会で語られたどの言葉も長谷川の心に染みた。その言葉を語っているのは、地域を引っ張っている大人たちだ。その大人たちも、長谷川がフラストレーションを感じていることを重要な問題と捉え、憤り、何とかしたいと考えていた。
秋田に魅力が少ないから県外から人が来てくれないという大学教授の言葉も胸に残った。県外から人が来てくれない理由、それは大勢の若者がこの地を去る理由と同じだと思えた。そして、これから地域を支えていくべき若者に対して、大人たちは力を発揮する場を与えてようとしていない。

長谷川敦は、惹かれた文章に赤いラインを引き、重要だと思うページに付箋を貼りながら、「秋田をこう変えよう!」を繰り返し読んだ。青い表紙の本は、赤いラインと付箋だらけになった。長谷川は思った。

自分が変えたいと思っている現実は、秋田県という地域全体にとって本質的な問題なんだ。しかも、民間も行政も、つまりは誰もその解決方法を見つけていない。大人たちが誰もやらないんだったら、俺たちがやろう。大人たちが夢を示せないんだったら、俺がそれを示す。秋田にラスベガスを作っていいんだ。

21委員会からの提言「秋田をこう変えよう!」は長谷川の考えに根拠を与え、イーストベガス構想の必要性を担保した。

長谷川は、次のヤング部会に本を持って行って、メンバーに紹介した。
「この本は21委員会という、秋田県を代表する経済人のグループが作った秋田を良くするための提言書です。この本には、人口減少とか経済が停滞していることとか、秋田の現状が書かれています。それは、つまり、なぜ秋田にラスベガスを作らなきゃいけないかという根拠になっています。」
長谷川はみんなの顔を見ながら言った。
「ヤング部会メンバーは全員、必ずこの本を買って、熟読するように。」

「秋田をこう変えよう!」はイーストベガス構想を進める長谷川たちのバイブルとなった。